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1381.
どんな驚異も、どんな深淵も、日々記憶の中で風化して行く。その意味では、キリストの「復活」や「再生」、「生まれ変わり」を強調した過去の神秘家達は正しい。我々は常に死滅の裡に在る。生きる為には我々はその都度誕生し、成長し、現在が過去に成り、過去が現在と成ることを確認しなくてはならない。「在る」とは「成る」と云うことであり、「生きる」とは「生まれる」と云うことである。


1382.
雑談―――何処へも行き着かず、またそうする気も無い会話、単に相手との親密度を上げるだけの為に行われる時間潰しは、私は得意ではないし、また好きでもない。この世に存在する無数の虫ケラの様な諸個人の、しかも上っ面だけをなぞるなどと云う酔狂な真似をしていられる程私は物好きでもないし、そんなことをしていられる程世界は十分に狭い訳でもない。雑談が有意義なものにである得るとしたら唯ひとつ、その底に魂の交流が有る場合だけだ。


1383.
意志と巡り会わせに欠けるところが無ければ、他人に対して言い訳をしなくて済む人生を選択することは可能だろう(そうした人間を私は心底羨ましいと思っているのは本当のことだ!)。だが自分自身に対する言い訳――これは恐らく一生治らないであろう。意識の病は、原則的に治癒が不可能なものである。


1384.
人が多い環境には我慢出来ない。群衆がぞろぞろ群れているのは見るのも嫌だが、私が積極的に関わらなければならない諸個人に比べればまだ増しな方かも知れない。群衆は少なくとも私個人に向かって話し掛けて来たりはしないし、私もまた群衆に話し掛けたりする必要は無い。諸個人が私の名前を呼ぶ時、また私が特定の名前を持った個人として彼等に声を掛ける時、私は卑俗な一人の人間と云う屈辱極まり無い立場に否応無しに立たされることになる。私はどうでも良い何処かの誰かなどと云うものには成りたくない。


1385.
名付けられた瞬間に、定義付けられたその瞬間に、或る種の恐怖はその半身を失う。未知であると云うこと、尽くし得ぬものであると云うことがそれらの本質であり、理解出来るものとなった途端に、それらはその崇高さ、偉大さ、無限性を損ね、俗で卑近な有り触れたものと化してしまう。逆に、その明証性故に恐ろしい恐怖もある。こちらは前者とは異なり、確定された世界の産物であり、余りにも明瞭に不可避的であるが故に恐怖する主体を圧殺しようとして来る。後者に神秘を求めるのは至難の業であるが、不可能ではない。限り有る具体的なものの極限の彼方に、それらの理を成しているものを透かし見ること………それは紛れも無く意識の深化であり、神と呼ぶに相応しい何物かが誕生するとすれば、恐らくそうした危うい境界に於てであろう。
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