k-m industry
1360.
批評すると云うことはそれ自体として既にひとつの不幸なのに、それを職業にして専門にしてやろうなどと思う輩が居ると云う事実は、私にはどうも解し難ねる。


1361.
何故大して美味しくもないあの安っぽい定食屋へまた行こうとするのかって? 金の論理が通用する場面に於て、不完全なものが存在していると云う事実は、それが許されているのだと云う錯覚を与えてくれるからだ。詰まり私は食事をではなく、勘違いを買いに行くのだ。


1362.
思い出を所有している者、或いは思い出と呼ぶに値する出来事を経験として所有している者を目撃したか、或いはそうした人種が確かに存在するのかも知れないと云うことに思いを巡らせた時に、ここ最近衝動的に私の口を衝いて出る「恐怖」と云う単語は、恐らくは、いや確実に、高邁な義務感や節度などではなく、下衆な嫉妬に起因するものだ。全てを先取りしてしまったことへの後悔が、私を、いたたまれないやましさの内へと放り込む。そんな時はどんな本もどんな曲も、生きるということに対する一時の代償行為にしか貢献出来ないものだが、その一方で私はそれを裏から支えているのが生への渇望であることを覚えて、秘かに愉悦と満足に浸りもするのである。


1363.
考えることを知らぬ生は、未だ生きられてはいない。考えることを知ってしまった生は、最早生きられることは無い。どちらにせよ我々が生きることは無いのだから、今更死を迎えたとて、一体何を怖れたり驚いたり、慌てたり騒いだりする必要が有ろうか。
 ―――この説の何処に手落ちや誤りが有るのか三十秒程真剣に考えてみたが、問題として後に残るのは他人に対する私の虚栄心位のものだった。そう、我々は生きている振りをしたがるものだし、またそうしなければならない様に出来ているのである、それがどんなにバカバカしいことか自覚していたとしても。


1364.
凡そ統御されない眠りと云うものは、少なくとも死や暴力の影に脅かされることの無い日常生活に在っては、休息とは呼べない。それは悪意有る仄めかしであるり、落とし所の無い性質 (たち )の悪い冗談であり、それが開示するものと云ったら、下卑た悲惨さと太刀打ち出来ない恐怖でしかない。人は日々世界を忘却すべきであるし、目覚める時には全く何も知らない者として目覚めるべきである。脅威にならない程度の僅かばかりの断絶の繰り返しが、人としての生を耐えられるものにするのである。我々は死ななければ生きては行けない。だが死者が生者を脅かすことは有ってはならないし、また生者が死者を脅かすことも有ってはならない。死者に成れない死者は須く悪霊に成るものだし、死ぬことの出来ない生者もまた悪霊に成る。我々は(仮令それがどんな屈辱的な場合であれ)生と死の循環を受け容れなければならないし、また両者の境界を大した覚悟も無しに弄ぶ様なこともすべきではない。安らぎとは須く残酷なものであるし、平和や幸福に躊躇いが有ってはならない。気付いた瞬間から一切は仮象と化してしまう。だが現実とは仮象ではないし、またそうであってはならない。………これらの偏執的な表現は、私の病理の告白であり、同時に健全さの証明でもある。しかもこの説明自体、どちらか一方の立場に立つことに依って、全く意味を逆転させるものである。どちらか一方を選択した場合、必然的に他方は切り捨てられる。妥協や和解は有り得ない―――少なくとも、今はそうとしか考えられない。正気を保つ為にはファシストに成らなければならないこと、少なくとも正気であると見せ掛け、また自分でもそう思い込む為には、ファシストに成る努力をしなければならないこと―――それは異常な、忌避すべきことなのだろうか………? この発言の何処から何処までが妄言なのだろうか? 疑問を持つことは正常なことである。だが答えを見付けることは必ずしもそうではない。………こんなことを考えるのは、昨夜の――いや、「今朝の」だろうか? 便宜上「昨夜」でも良いだろう――夢見が悪かった為だろうか。確かに昨夜の眠りには幾つも条件の不備が有った。だがそれだけが原因ではない筈だ。私は正気でありたいと望んでいる! 歪んだ偏狭な認識に世界を狂わされたくはない。だが、筋道の立った想像力を伴った思考の必然として、境界 (ボーダーランド )は否応無く浮上して来る。我々の存在を脅かし不安にさせるのは、その規定されざるものが投げ掛ける影の領域なのだ………。
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