1337.
青春は殺人衝動と共に在る。生が生長を求めて横溢する時、死もまた横溢する。


1338.
苦悩や悲惨と無縁でいられる人間と云うものは先ず存在しないが、笑いと無縁な人間と云うものは有り得る。悲劇を解するのに人は然程の努力は要しないが、喜劇を解して笑う為には、人は喜劇の見方、笑い方を予め学習しておかなくてはならない。それも出来れば幼少期からの方が良い。人は喜劇(単に「滑稽な場面」でも構わないが)を見ると同時にその喜劇を見て笑う人々の姿を見ておかなくてはならない。それも出来ればテレビの画面の向こう側のものではなく、詰まりこちらがつられて笑い出したり、向こうがこちらの代わりに笑ってくれたりと云った関係に終わるものではなく、こちらに積極的に笑いの場への参加を促し、こちらからフィードバックを返すことで相乗効果が期待出来るものの方が良い。その際他人の笑う姿が知覚出来る状況の方がより好ましいことは無論である。笑いは、呻吟や涙よりも社会的に学ばれる必要性の大きい行動パターンであり、常に条件付けや強化、追認を必要とする、高度に文化的な反応である。
 人がバナナの皮に足を滑らせて転ぶ、と云う出来事は、立派にひとつの悲劇たり得る。転んだ当人は苦痛を感じるだろうし、人に見られたとしたら、その人はみっともない姿を曝してしまったことを恥ずかしく思うかも知れない。これが喜劇と成る為には、さぞや痛かろう、恥ずかしかろうと心底からの同情や共感を寄せてはならない。そんなのこっちは知ったこっちゃないやと突き放す姿勢が必要で、笑われる側の苦痛や恥辱から或る程度の距離を置き、その当事者的な苦しみに対して、無効を宣言するのではなくてはならない。その為には笑われる対象側にもそうした深刻さを逃れる為の要素が含まれている方が望ましく、場合にも依るが、例えば否認や隠蔽等、その苦しみを対自化し、様々な手法で無効化しようとする働き掛けが有った方が可笑し味は増す。笑う方もそうだが笑われる方も、この苦しみを正面から()の儘受け止めてしまっては、これを対象化して笑うことは難しくなる。
 私は微笑みを誘う人情喜劇等のことは除外して述べているのだが、哄笑を誘う滑稽さの場合、一般的に笑いの誘因として認識されるのは謂わば世界の関節が外れた状態、通常の円満円滑な生(行動様式、生活様式、習慣、意図、信条等、何でも良いが、人が世界に対して斯く在るべきものとして期待している場合に於ける人間の在り方)の流れが阻害され、挫折した状況である。異常なもの、完全でないもの、美しくないもの、意表を衝くもの、不自然なもの、我々の予想を裏切って世界の恣意性を暴露するもの―――それらに直面し、期待を外されてしまったことに対しても、その不条理さを自らの内に取り込み、寧ろこちらから積極的にその破綻した生の部分の無効化を肯定することによって、逆に生の全体が没落するのを防ぐのが笑いの本源であって、長い長い人類進化の結果としての巧妙に仕組まれた奸智の為せる業である。
 笑いが起こる時、笑われて切り捨てられた部分の方は無論死滅して行くしか他に道は無いが、笑いと云うものはこの時必要なだけの知覚情報や想像をシャットアウトし、忘却の河へ、或いは始めから存在していなかった、起こらなかったものどもの廃棄所へ投げ入れる作業の謂いである。そこに含まれていたであろう、或いはいたかも知れぬ真剣さ、真面目さは決して顧みられることが無い。顧みられるとしたらそれは笑いが死んだ時である。我々は笑いと云う濾過作用を通じて、我々は世界に何をどの程度期待すべきか、どの程度まで真面目に生きるべきかを学ぶのである。それは、世界は我々の期待に対し結局のところ完全には応え切れないのだと云う敗北を宣言するのと同時に、実はそこには逃げ道が無い訳でもない、とこっそり背後から耳打ちをして来る。現実の我々は、我々が作り上げようとする世界の要望には耐え切れない。だから、時々はガス抜きによる調整が必要になる。敗北宣言は我々の無力と怠惰の証であると共に、謙虚さの証でもある。世界は我々の予期から漏れ出る。それを認知し受容する為の工夫が笑いなのである。
 笑いは、歯を剝き出す威嚇行動から進化したものではないかと云う説が有るそうだが、とすると、進化上最も根源的な笑いは、大衆ものの娯楽の中の大悪党なぞがよく笑う、あの勝ち誇った高笑い、自らの優位と安全を絶対に確信するが故の笑いであると云うことになる。笑いとは敗北宣言であると同時に、部分の犠牲によって没落を免れた生の全体の、勝利の宣言でもある………。
inserted by FC2 system