1324.
日が暮れて道が遠いどころか、そもそもどの道を歩いて行けば良いのか、どの道を歩いていたのかすら判らない。


1325.
笑うか、戦くか―――即自的な生を送ることが出来ない者が積極的に生を送ろうとする場合、選べる選択肢はそう多くはない。


1326.
私が書く小説は、或る種の現代音楽に似ていると言っても良い。それらは何れも、明確なモチーフやプロットを前面に押し出して、作品全体に明確な意味や構造を持たせてしまうことを酷く恐れる。そこで重要なのは寧ろもっと短い単位での文章や音そのものであり、それらが開示する密度の高い存在の地平の方である。必然性を持った前後の関係から各部分が決定されるのではなく、深淵を覗き込む現存在の推移が、自ずと全体の流れを形作る。ドラマツルギーを否定したり排除したりするものではないが(それは人間の音楽的感性にとって調性や旋法が必要なものであるのと同様、余程人工的な技巧を凝らすのでもない限り、完全に排除しようと思っても出来るものではない)、それが作品を主導して行くのではなく、仄暗い存在の深部を切り開く為の音や言葉の集積の中から、ドラマツルギーらしきものが自ずと紡ぎ出されるのである。謎も解答も小出しにされ、そこでどもることによって生み出される不安定感が、この背後に在るより大きなものを暗示する。それらは声高に何かを主張するのではなく寧ろ沈黙へと向かう。動きは静止を表現する為に在り、そこで語られることは終局的には全て廃棄される為のものである(その意味で、私は小説家と言うより詩人か、言葉を使用する空想家と言う方がより正確なのだろう)。


1327.
全く誰の姿を目にすることも無く、誰の声を聞くことも無く過ごせた一日の、何と心安らぐことか。だが他人の声は、眼差しは、一寸したきっかけさえ有れば無人の風景の中へだろうとずかずかと入り込んで来る………。


1328.
子供が無垢なのではない、大人が子供の中に見出すものが無垢なのだ。残酷さについてもまた然り。子供自体は無垢でも残酷でもない。


1329.
主体にとって———少なくとも、ひとつの実存と云う事態である限りの主体にとって、認識は存在の彫琢である。目に見える世界それ自体、心に映ずる己そのものがひとつの作品である(そしてこれを書いている私もまたひとつの主体であり、この記述もまた詰まりは、私の世界が生成していると云うことのひとつの表明である)。
inserted by FC2 system