1312.
音楽を聴くことの喜びなど、音楽を演奏し、共に作り上げることの喜びに比べれば何程のものだろう。が、私は客席から立ち上がれない。演奏することによってのみ見えて来る細部は、私は地上へ引き戻し、苦しめるからだ。


1313.
簡単な話だ。私と云う実存にとって、他人と云う実存などと云うものは存在しない。彼は私の実存の風景の一部分を成しているに過ぎない。両者の間に凡そ望み得るのは妥協と合意に基付く、維持して行くのに相応の努力を払い続けねばならぬ和解のみであって、救済などではない。


1314.
観想 (テオリア )の許されぬ社会に私達は生きている。考えるよりもとにかく何か行為することを求められている。考えるとしても頭脳ではなく脊髄や筋肉や胃袋や生殖器でによって考えることを義務付けられている。若し私が消費社会の申し子でなければ、或いは若し私に十分な生活基盤が有れば、早々に都会の部屋を引き払って周りに誰一人居ない山の中で静かに孤独を楽しみたいところだ。


1315.
「我が友、ヘラクレイトス」―――この言い方はおかしい。若し彼が私の考える通りの矜持を持つ――真理に対して誠実であり忠実であると云うことだが――人物であったならば、私と彼とは友人にはなれない。………いや、私も彼も、誰とも友人にはなれないことを知っていたであろう。


1316.
凡そ人の世に関する限り、無知で無力であることはそれだけで罪である。人は誰しもがこの人の世に対し途方も無い負債を抱えている。より正気であろうと努力することも出来るし、目も耳も塞いで知らぬ存ぜぬを決め込んだところで実のところ誰か決まった取り立て人が居る訳ではないので、だんまりを決め込むことも出来る―――そしてそのことが非難されることは稀である。………この見解を誇りを持って支持することが出来ればいいのだが。実際、そうでも思わないことには、馬鹿ばかしくてとても人間なんぞに付き合ってはいられない。


1317.
他の者の場合どうなのかは知らないが、少なくとも私の場合、或る種の体験はそれ自体でひとつの作品である。そして私の読者にとってひとつの体験たり得るのは、そうした体験から生まれた作品だけだと私は思う。
inserted by FC2 system