1302.
事象a、bと云う項の間にxと云う関係が成り立っている時、念頭に置くべきなのはxの関係性それ自体と、その関係性を成り立たせているところの、詰まり事象a、bが各項として存在し、機能し、それらがxと云う関係によって結ばれていると云う、或いはもっと事態に即した表現を心懸けるならば、xと云う関係が存在し、その各項として事象a、bが存在していると云う、それ自体ひとつの事象であるところのひとつの事態、その文脈のものを決定させるところの、a、b、xを同定する眼差しである。後者はこれ自体ひとつの事象であり、自らもまたひとつの項として他の項と関係を結び得るものであるが、これは単に事後的な解釈のみならず、例えば量子レベルで光を観察する時の様なひとつの積極的な介入でもあり得る。各々の場合の全事象の実在度は、その関係性への巻き込まれた方如何によって決定されるものではあるが、これはひとつの文脈を決定すると云うことが必然的に他のあらゆる文脈を(婉曲的なものであれ直接的なものであれ)優先順位を付けて根刮ぎに排除すると云う行為によって成り立っていることから来る必然の帰結である。とは云え、少なくとも我々人間に許されている限りに於ては、より包括的である得る事象とそうでない事象と云うものを区別することはあり得るのであって、例えば表現される場合に否定形を用いる関係は肯定形を用いる関係よりも遙かに多くの事象を包摂し得るが、原則的にどの事象であれ他のあらゆる事象と関係し得るのだから、関係性の成立を外側から限界付ける柵は本来存在していない。その様な意地悪でもしない限りは、我々は比較的安定した万有世界を手にすることが出来る。


1303.
万物は全て万物と関わり、万象は全て万象と関わっているが、人間の心はその非直接的な関係の仕方に於てすば抜けた存在である。この場合の「心」と云うのは詰まり、文字や画像、テレビやパソコン、望遠鏡や顕微鏡、数式や図表と云った様々な外部的手掛かり、簡潔に言えば多種多様な「梃子と鏡」と一体化したものとしての人間の精神のことである。我々人間が終始主観、客観の別に悩まされるのは、今現在のところ生命体のみに認められている(可能性としては人工生命体も含めて良いが)、認識の主体として獲得してしまった世界の辺縁からの距離に、我々自身が気付き得るまでにその認識の及ぶ範囲を広げてしまったからに他ならない。我々が知ることの出来る限りに於ての「客観」、詰まりその認識主体が意識しているといないとに関わらず、主観の裏側に在って、主観を支えているもの(構造)とは、とどの詰まり我々に知り得る限りに於てのそれに他ならないのであるが、それが我々がそうした外部装置を発達させて来たことによって初めて獲得されて来たものなのであるから、この場合の客観とは詰まり自己の外部へと触手を伸ばした主観に他ならない。そしてその時の距離感を測る為に必要なのが「鏡」の方であり、これにより人間は世界と自己、双方を二つの、最初の内は独立した項として扱うことが可能になったのである。


1304.
あらゆる同定は文脈に埋め込まれていること、そして全てを覆い尽くせる文脈は存在しないこと、これらを理解せよ。そして、出来れば個々の文脈を、他の文脈と適切に関連付け、その意義の重要性を比較し、ひとつの流れへと纏め上げよ。


1305.
私は生存の追求を否定しない。だが只生きられるだけの生に何の意味があろう。私は幸福の追求を否定しない。だが只幸せなだけの生に何の意味があろう。そこに何かが―――自分でも、世界でも、誰かでも何かでもいい、とにかく何かがそこに確かに存在していることを知ること、それこそが我々の生を真に意義あるものたらしめるのである。少なくとも今の私にはそれ以上のものは思い付かない。これを貴族趣味と非難されても仕方は無いが、しかし最後まで全く訳の分からない儘生きられてしまった生に、一体どれだけの価値があると云うのか。我々が為すべきことは、悲惨なまでに大きな外堀の諸条件を埋める為の最大限の努力をすることであって、人類が精神として目指すべきところのものは当面はそれである。人類は、生存や幸福の追求から自由にならなければならない。永遠を見ることを知らない生は不十分であり欠陥品である。
inserted by FC2 system