1288.
一時豚の様に生きる権利は、誰にでも認められて然るべきだと私は思う。だがそれが義務、しかも一生涯となると………!


1289.
私を規定しようとする力と、それを解体し組み立て直そうとする力、両者の果ての無いイタチごっこの末に私が在る。だから私は生涯私を裏切り続けるだろうし、離反と否定こそが私の宣言と呼ぶべきものである。


1290.
常に台本を何冊も抱えているので、時として言うべき台詞を取り違えてしまう。但、今上演中の出し物が一種類しか無いと思い込んでいる連中にこの失態を説明していやるのは可成り難しい。


1291.
私の書く小説の内或る種のものは、現時点に於ては音楽にのみ覗き込むことを許された深淵に、何とかして言葉によって辿り着きたいと云う不純な動機に発している。それは、作曲と演奏に対する自らの無能感と無力感と、言葉に比した時の音楽の余りの節操の無さ―――本質的に時間芸術である音楽は、余りに易々と没落し、その魔力を失う。それに音楽は、愚者にも賢人にも同じ様に笑みを見せ得る。その「政治的な胡散臭さ」に我慢の出来ない私は、屢々音楽のことを、「確かに魅力的ではあるが、所詮は一時の気の迷いに過ぎない」と切り捨てたくなる―――に起因する一種の代償行為なのだが、これは元々無理な接ぎ木をしている為、幾らやってみたところで際限は無い。


1292.
生活の不快指数の上昇に、幼き日々を思い出して行く………。そう云えば昔から何時もこんなだった!


1293.
時々、多者でいることが耐えられなくなる。幾つもの顔と声は、私に息を継ぐ余地を与えてくれもするが、同時に私を爪弾きにもする。ひとつであろうとする心と、多くであろうとする心。何かの物差しを使おうとする限り、健常な答えは恐らく両者のバランスにあるのだろう。だがだからと云ってそこで生きられる嫌悪感や不浄感を納得させられよう筈も無い。


1294.
私が幸福感と云う幻影で自らの生を欺くことが出来るのは、精々のところ、生クリームたっぷりのシュークリームやケーキ、さもなくばアイスクリームを食べた時か、微睡みから眠りへと落ちて行く数瞬間に過ぎない。人の世に在っては、私に充実した幸福感が訪れることは滅多に無いし、有ったとしても、それは常に全てが手遅れだったと云う喪失感と抱き合わせになっている。喪失の物語が受ける (、、、 )のは、喪失されるべき何ものかが確かに有ったと云う幻想を作り上げてくれるからだが(具体的に例証された幸福物語程詰まらないものは無い)、私は余りにも正直なので、我々が現実と呼ぶところのものの根底にも同じカラクリが横たわっていることを幸運にも失念し去ることなど出来ないでいるのだ。
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