1269.
肉体と共に目覚めている時間の内で、私がまともに生きていると言えるのは微睡みの間だけだ。他は全て、生の残骸、搾りカスに過ぎない。


1270.
下らないことを下らないと言い捨てたところで大して気が晴れる訳ではないが、それでも、それを言うなと言われると我慢がならない。げに人に何かを言わせるのは自由ではなくして不自由さ加減である。


1271.
心臓の鼓動が、耳を搏つ脈動が、私と共に寄り添って同じ生を流れる夜か、或いは不倶戴天の敵と化す夜、私はその申し子である。


1272.
この世で円満な生活を送る為の一番の秘訣は、鈍感であることだ。無数の眼差しにも諸世界の煌めきにも全く気が付かずに、自らの存在さえ忘れてしまって、盲目的な肉と衝迫の塊として一生を過ごすことだ。深淵は君の傍らを通り過ぎてしまって君は何ひとつ掴めはしないが、君は自分がどれだけの損失をしたかと云うことすら知らない儘終わることが出来るであろう。


1273.
ネーゲルの『コウモリであるとはどの様なことか』と云う問いは、この問題を解り易くする為に極度に戯画化された表現であって、厳密に言うならば、「自分自身であるとはどの様なことか」と云う問いからして、これに答えることは容易ではない。何故ならば、この場合の「私」が何等かの具体的に同定可能な指示対象を持つ意味充実的なものであるとすれば、それは必ず一定のコンテクストの中に組み込まれていなければならず、そしてそうしたコンテクストを構成し得る諸条件と云うのは無数に存在し得る。そして、その諸条件のひとつひとつは一義的には同定は不可能である、詰まり、他の諸条件に依存せず独立して同定可能ではない。ここで求められているのはそこで何等かの事態が起こっていることを指し示す座標上の点としての「私」、詰まり〈自我極〉などではなく、「これこれの私」である為、その場で同定可能ならば潜在的に無数に存在することになる。
 例えば、「このトマトは赤い」(=「このトマトは赤く見える」)と言う言明が有意味であり得るのは、「私と切り結ばれる関係のひとつに於て、このトマトの赤さは一義的に同定可能である」と云う粗雑な判断を許容した場合のみである。我々は通常カテゴライズ済の世界に馴れ切ってしまっている為、厳密さへの要求を持ち出すことは滅多に無いが、だからと云ってそれが事実問題として正当性を持ち得るかどうかは全く別の問題である。


1274.
一切の共有可能な事実は明らかにされねばならない―――これが公共性の次元に於て基底を成す第一の当為命題である。そしてその参加者は当然、それらを明らかにせねばならない。
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