1257.
懐疑する精神にとっては、肉体的な意味に於ける他人の生死などは大した問題ではないし、また、他人同士の具体的な差異等も全て些細な事柄に属する。寧ろ存在性格の強度と云う点に於ては、往々にして生者よりも死者の方がよっぽど実在性に満ちているし、疎外や共在の形式に於て一個の肉体を備えた他人などと云うものが一個の符牒以下にしか過ぎぬことは、能く観取されるところである。厳密に言えば、一人の生きた他人などと云うものは存在しないのだ。


1258.
他者は常に多者である。相貌にひとつしか同定可能要素が無い場合にしろ、その仮面を被らされる者、詰まり具体的な対応物は可能的に複数のものが想定されている。若し完全に一対一に相即しているものが有り得るとすれば、それこそが神か魔と呼ぶに相応しいであろう。


1259.
虐殺者の感覚を持つこと無しに、思考の能力に対して誠実であり続けることは出来ない。従って本来、夜毎亡霊に(うな )される覚悟が無ければ、人はものを考えたりすべきではないのだが、大多数の者は幸いなことに極度の鈍感さからその災禍を免れ、そして残る少数の者は止み難い衝動に駆られ、覚悟が有ろうと無かろうと盲目的に深淵へ突き進んでしまうのである。


1260.
成長中の精神にとって、思考は常に切迫している。不快や苦痛を伴わない思考は死んだ思考である。刈り取られ、殺菌消毒され、真空パック詰めにされて冷凍庫の片隅へ押し込まれた思考である。身震いのする様な悍ましさや得体の知れぬ気持ち悪さの無い所には、唯緩慢な退化が有るばかりだ。


1261.
故意に間違ったことをしたいと云う私の不可解な欲求は、破滅の快楽それ自体を除けば、この余りにもデタラメな世界に対する反感と自身への矜持、他人を見下したいと云う欲望と、それに多分の責任回避欲求に起因している。詰まり私はこの元々が間違っている世界に対し更に間違ったことを突き付けてやることによって、「私はお前達の輪に参加する積もりは無い」と云うことを暗黙の裡に宣言したいのであって、これは現実逃避と言うよりは寧ろ現実離脱とでも言うべき行為である。この方式の最大の難点は、相手に間違いを指摘された時に逆上するか恥じ入るか、或いは何食わぬ顔で居直りを貫き通すしか無いと云う点で、どれも非常に不様である上、私は自分がやはりその不完全な条理に参加することを求められており、しかも逃げ道が断たれてしまったことを思い知らされなければならないのである。


1262.
生きる為に食べるのであって、食べる為に生きるのではない。これは私には今更説明の必要も無い自明の理と映るのだが、生憎と世の中で暮らすと云うことは耐え難いまでの騒音に終始苛々させられならないことを意味している。
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