1212.
この恐怖に全て呑み込まれてしまえばいいと思う。この戦慄が永久に覇権を握ればいいと思う。そして、余剰を心底嫌悪する。
 こうした態度を赦すべきだろうか、裁くべきだろうか。私は全てを受け入れようと決めた。そして否定され続けている。


1213.
「実存者であること」を「執拗に対自的存在であってしまうこと」の略十全条件と見做して用いている者にとってはおかしな言い方になるかも知れないが、実存主義に厳密に現象学的な手法を導入するかどうか、言い換えれば、手持ちの材料としては飽く迄意識が第一次的に捉えたものに固執すると云う認識論的な潔癖さを貫くかどうかは、突き詰めれば趣味の問題である。実際のところ、「実存主義者」と呼び慣わされているところの著述家達の中にも、不徹底なのではないかと思わざるを得ない者達が何人も居る。これは実在性をどのレベルで最も重視するのかにも依るのだが、厳密に認識論的な語り方をしようにも、何処かで存在論的な構造を密輸入しなければ上手く語れない次元と云うものが存在するのである(仮令それが意識によって定立させられるものだとしても、恰もそれが意識以前に独立して意識を待ち受けていたものの様に語らなくてはいけない)。
 私は少なくともそれが私によって認識され私によって生きられる限りに於ては存在論的な構造を前提しても良いのではないかと考えている。それは私と云う存在を規定するひとつの物語なのであり、意識がそこで動く場を与えてくれるものなのである。但しそれが他人に対してどれだけの普遍妥当性を持つかは別問題ではあるのだが、不思議なことに私は余りそうしたことは気にはならない儘である。そもそも「実存主義者」とは「体系なんぞ糞食らえだ。私にとっての真理のみが問題なのだ」と傲然にもうそぶく連中のことを指して言うのではなかったろうか?


1214.
他の人間から向けられる眼差し、又はその萌芽無くしては、ヒトは人間たり得ない。


1215.
無名の儘で終わることへの恐れ。肉体を備えた大勢の諸個人の中の一人としてではなく、幻視する一個の独自な精神として、人類社会の中で名を持てぬことの苦しさ。個物としては何程のものでもないと告げ知らされることへの嫌悪。永遠と普遍を希求する存在であり乍ら、私はまだこんなものに囚われている。


1216.
翻訳された詩は最早詩ではない、詩「の様なもの」である。


1217.
己が一箇の肉体であることの、何と云う惨めさ………!


1218.
何かが完成した瞬間から裏切りが始まる。時によっては死者達さえも。


1219.
選択の重さに耐えられない。出来れば何も選択したくなどない。選択された世界は、常に欠如を孕んだ欠陥品だ。
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