1204.
この世に本当に憤るに値するものが何か在るとしたら、我々の認知的限界はそのひとつだ。


1205.
場違いな所に何時までもだらだらと居続けなければならないこと程惨めなことは無い。せめてもう少し不快さの少ない辺りへ、と思っても、それすらも(極く極く下らぬ理由によって)叶わない。私がビッグバン以前の宇宙の胚胎期を切望したとしても無理からぬことではないだろうか?


1206.
超越運動への契機を持たぬ者の生は人間以外の動物の生と何の変わりがあろう。


1207.
誰もが、喜びに満ち溢れた奴隷であることを強いられる。誰もが、政治や教育について自分の考えを持たない有能なロボットであることを求められる。不平や憂愁等と云ったものはそもそも存在すらせず、仮令有ったとしても仮染めのもの、ポーズにしか過ぎず、この世界について根本的な異義を申し立てるものではない筈なのだとされる。単純で手垢に塗れた笑顔と満足、そして視野狭窄的な向上心だけが表明を許可され、これを疑問に思うものは当然乍ら落伍者か異常者となる。唯一にして絶対の価値基準は金であり、その動因を貫いているのは快楽の追求、不快の回避の原則である。誰もがその所持金や身分毎に認可された経済活動に従事している限りに於ては何をしても良く、行動の善悪は他人の快楽の度合いによって測られる。それを途方も無い浪費と言い立てることは不敬罪に当たり、その空しさを口にする者は監禁されるか憐れみの目で見られる。誰もが、賭博の味を覚えてしまった子供か、その子分でなければならない。下らないことを下らないことと、うんざりすることをうんざりすることと言うものは大概の社会的恩恵を失う覚悟をしなければならず、そうでなければ一生死ぬまで口を閉ざしていなければならない。我々は皆活力と希望に満ち溢れた生活を送っているのであり、マスメディアも政府も日々そうでない筈はないと懇切丁寧に教えてくれているのだから、それを堅く信じるか、堅く信じている者としての行動を取らなければならないのだ。曰く人間とは、労働し、消費する豚のことである。


1208.
この絶えざる懐疑と逡巡の裡に在って、現象へのこの愛を育むべきか、否か。仲介者の誰一人居ない舞台の上で、私は今だ、立ち尽くした儘でいる。


1209.
本などと云うものは存在しない。それぞれ一回限りのその(外延を何処で決定するかと云う問題はさておいて)読書体験が存在するだけだ。何かの本について言明する時は、若し厳密な正確さを期するならば、それが如何なる読書体験下に於ける本なのか、明記しなくてはならない。


1210.
病を得て、私の境界が激しく自己主張を始める。まるで、世界に線引きをすることこそが一切万物の目指すべき最終目的であるかの様に。


1211.
職に就くと云うことは、ヨブの様になると云うことだ。だが私は神の代わりに金を信じる積もりなぞ毛頭無い。
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