1172.
日本の学校教育に於けるイデオロギー教育の側面を過大評価してもいけないし、過小評価してもいけない。イデオロギー教育は、社会的政治的な事柄について何をどう考えるべきかを叩き込むことになるのだが、これを字面通り実行出来ると思うのは思い上がりである。児童や生徒達が全く自律的判断力を持たない無差別の受容器であると見くびるのは誤っている。多少なりとも真っ当な想像力を持ち合わせている者であれば、納得の行くものと行かないもの、実感が湧かず、取り敢えず受け容れるべきものであるものと、実感も湧かず、理屈から言っても容認し難いものとの区別をきちんと付けられるものである。だが、平穏無事で深刻なトラブルの起こらない日常(これが日本での情緒的なウェットな全体主義を助長するものの性格を特徴付けている)と云うイデオロギーに既にどっぷり漬かってしまっている者達は、そこで考えるべきことを感じるべきことをではなく、何を考え何を感じているのかの様に振舞うべきか、つまり教師や親達が自分達にどんな振る舞いを期待しているのかを覚えることになる。これが逞しい面従腹背の精神を育てることがあると云う面も確かにあるが、少なくともそれは積極的にどう抗うべきかを教えてはくれない。そして押し付けられる指針は、少なくとも基本的な行動一般を規定付けるものとしては有効に機能してしまう。これが、思想・良心の自由を「内心の」自由と取り違えても疑問に思わない風土を醸成し、(いず )れ健全な批判精神をどんどん腐敗させて行くのである。


1173.
人が否応無く興味を持つのは、生きているものでも死んでいるものでもなく、その中間にあるもの———即ち、死に掛けているのか生き掛けているものだ。


1174.
ひとつの進行中の事態に対して可能なあらゆる可能性を考慮に入れていたら、人は終わることの無い不決断の前に立ち尽くすか発狂してしまう。就中凡人に想像が出来そうな諸可能性など大海の中の一滴に等しく、しかも実際に思い浮かべられるのは更にその中のほんの数分子に過ぎない。


1175.
「人生最大の過ち」と云うやつを、既に我々自身に代わって我々の母親が犯してくれてしまったばっかりに、我々は皆残りの生涯の全てを懸けてその後始末と際限の無い言い訳に追われることになる。


1176.
プロメテウスやシジュフォス、或いは賽の河原の子供達でも良いが、地獄の苦しみの勘所とは詰まり、個々の苦痛の程度が激しいことや、それが長期間に亘って続けられると云うことではなく、それが「永久に」繰り返されると云うことにある。前回と全く同じ結果になると予め判ってしまている出来事に意味は無いし、そんな行為を際限無く繰り返すのにも意味は無い。仮令楽しい芝居見物であっても、十回も立て続けに同じ演目を見せられたら嫌になりもする。反復はあらゆる楽しみを駄目にするし、こうして時間を奪われた人間は最早人間とは呼べない代物と成り果てる。定められた宿命と見えたものからのズレこそが、人が人たり得るものを提供してくれる。
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