1114.
稚拙であっても自分の言葉を生きるのでなくては、万言を費やそうと空しい。


1115.
自分の抱えている数多の矛盾の全てにいちいち真剣に付き合ってなぞいられない。頭がパンクしてしまう前に「気分」によって誤魔化すことを覚えないことには、何時まで経っても酷い自己欺瞞の念に悩まされ続けることになる。自分が、自分の手に完全に負い切れる代物ではないのだと云うことを自覚しなければ、正気に成るなど不可能な相談である。


1116.
厳密に言えば、全ては、存在するのではなく、成るのである。例えば数学的諸対象の様に、一見不動のものに見える対象でも、それが対象として成立している限りに於ては、それを成立させている眼差しとの関係の裡に、不動の存在であるものとして生成したものなのである。対象同士が絡まり合う場合に於ても事情は同じで、それらを絡まりあっているものとして成立させているところの眼差しに於て初めて、それらは絡まり合っているものとして成立し得るのである、それらと切り結ぶのは絶対の〈現在〉、より正確を期すならば同定不可能な虚焦点としての〈無〉であるが、このそれ自体生成そのものである〈無〉が他性の虚焦点を得て展開した結果としてあらゆるものが生成するのである。


1117.
昔は「在るが儘」などと云う言い回しを聞くと、酷く居心地の悪い思いをさせられたものだ。何しろ私にとって、「在るが儘」などと云うものは多重的な混乱と矛盾の集積体で、何処をどうしたら同定が可能になるのかさっぱり理解出来ず、この捉えようとしても捉え所の無い意識の流れの何処を見ればそんな代物が出て来るのだろうと大いに困惑したものだ。何せ同定しようとする動きそれ自体が同定されるべき動きを生み出してしまうのである、一義的な「在るが儘」など、私の基準からすれば到底求め得ようが無いものだったのだ。その後「在るが儘」とはその捉え所の無さ、最終的な同定不可能性を引っ括めたものを意味するよう妥協したが、世人の言っている「在るが儘」とはそれとは全く異なる呆気無いくらいに幼稚で単純なものなのだときちんと理解するにはこれよりもずっと長い時間が掛かった。精妙な頭の持ち主が粗雑な頭の持ち主の考えることを常に理解出来るからと云えば決してそうではなく、寧ろその無理解さを理解し難ねて、却って想像力が及ばないことが往々にしてあるものなのだ。何時も空を飛んでいる鳥は、鳥籠の中で一生を過ごす鳥の気持ちになってみることは出来ないのである。恐らく私は家庭教師なぞには向かない性格なのであろう。


1118.
映画やアニメ、TVドラマ等の予告篇が、屡々あれ程までに(往々にして本編以上に)面白いのは、それが先取りされた形式を取り乍ら、基本的には回想であるからだ。確定され、切り取られ、脚色された時間、それは現実の時間がまだ追い付いていない場合でも、その後にどの様な時間が来るべきなのかを説明し、宣言し、枠組みを与える。予告に於て予め告げられていた時間は、始まる前から、どんな現在を以て充足されなければならないか、そこで既に決定されている。我々はそこで観客としてどの位置に立ち、どんな顔付きで、何を期待して観ていればいいかを教わることになる(尤も、予告篇と観客との間に切り結ばれる関係は必ずしも一義的に定まっている訳ではないが)。現在を耐えられるものにするには屡々こうした時間の編集が不可欠である。ここで重要なのは真実「らしさ」であって真実それ自体ではない。
inserted by FC2 system