1089.
石や金属までもが腐って行く様に思える夏の盛りに、どうやってあの厳粛な約定について真剣に考えられると云うのか。一個の活発な精神として正常に機能する為には、適切な湿度と温度とは不可欠である。


1090.
あらゆるものが生への言い訳じみて見える日には、うんざりして途方に暮れる以外すべきことは無いだろうか。何かあるのではと思うのだが、それを考えようとすると頭に血が上ってしまってどうも上手く行かない。


1091.
或る眼差しの必然的な対立物としての覗き返して来る眼差しを、元の眼差しを包摂する場や無化する眼差しと取り違えないこと。ここで間違えてしまうと、酷く歪でねじくれた「合理性」が出来上がってしまう。


1092.
あらゆるものはそもそも存在しておらず、また虚無でもない———この時、自分がどの段階でものを言っているのか意識しておくこと、段階を、過程を、順番を無視しないこと、条件を自覚し焦らないこと。


1093.
凡そ人間の行動や心理に関する限り、手鏡の持ち合わせが無い分析家は、仮令どんなに才気煥発なことを口走ろうとも、間抜けな阿呆であることに変わりは無い。尤も、手鏡ばかり覗き込んでいるのも、これはこれで困ったものなのだが。


1094.
香典:芝居が始める前にではなく、終わった後で支払う珍しいタイプの見物料。これを支払った観客は、仮令どんなに詰まらない芝居であったとしても、世辞の上手い俄か批評家と化して「面白い芝居だった」と言うか、さもなくば、他の観客達が同じ様なことを延々と並べ立てるのを我慢して聞いていなくてはならない。


1095.
私が「実存主義者」と言おうとしないのは、「主義者」と言うと何やら「実存すべきだ」と言っているかの様なニュアンスが出て来てしまうからで、それよりは寧ろ「既に実存してしまっている者」と云う意味の出る「実存者」と云う呼び方を選びたいのだが、この場合、当為ではなく既成事実として在る私は、認識論的に厳密に定義付けられた極限、即ち、デカルト的な自我極ではなく、寧ろ現象学的な常に何かの手触りを持った具体的(concrete)なものとして与えられているものを指す。この時、そのそれぞれが各々どの様な複雑な観念的衣装を纏っているかは大した問題ではない。極端な話、ヘーゲルやフィヒテだって実存者と言えないことはないのであって、要はその観念が現に自覚的に生きられているかどうかと云う事実が肝心なのである。どんな形であろうと構わないが、とにかく私は或る存在性に於て生きており、且つ生きられている、と云うこの二重性の自覚の意識を終始持ちつつ、その履行を継続する者、それが詰まり実存者なのである。

 大局的に見れば、これは乗り越えられるべき一段階、やがては捨去らるべき梯子なのかも知れないが、少なくとも私にとっては、それは始終そこへ引き戻されずにはおかない、厄介な思考の原点なのである。笑いたければ笑うがいい、出来れば私も一緒に笑いたい位だ。
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