1076.
認識論上の問題を考える時ついつい見落としがちになるのは、「裸の眼差しなどと云うものは無い」と云う一事である。どの様な認識事象であれ、その認識がその様な認識として成立していると云う同定判断無しに語ることは出来ない。例えば「この認識Aは認識Bと交換不可能である」と言う時、そこで不可能とされているレベルをこれこれときちんと条件付けてやること無しに論述を進めてしまうのは全くの手落ちである。或る認識を或るコンテクストに限定させる時、その限定を自分が行っていると云う事実を忘れていてはならない。  私がこのことを強調したいのは、こうした視点を忘れてしまうと、人は安易に、認識主体の終着点たる最終「自我極」を、常に何等かのコンテクストに埋没したと云う形に於てではあるが、暗黙の裡に想定することに慣れてしまい、認識「主体」の境界線が、場合によっては非常に脆く曖昧な危ういものであると云うことを忘れてしまうからである。自我極とは飽く迄虚焦点、際限無く引き算をしていった時に最後に残るもの、とされているもののことであり、確かにその存在を先行的に措定しておけば、大体の場合はそれで上手く行くのだが、しかしそれが一時の便宜であって、極限値までを考慮に入れて十分に定義し尽された実体ではないことを心しておくべきである。  我々は絶えざる関係性の内に成立している諸々の(しかしひとつの、とされる)事象であるが、そのことは常に意識しておかないと、世界は忽ちの内に実体的なものへと転落してしまう。


1077.
人道の見地からすれば、少なくとも二十世紀以降の歴史に於ける戦死者は全員犬死にである。


1078.
時に私は自虐的に過ぎるのではないかと思う人も、実際に私に会って話をしてみれば私と同じ結論に達するに違い無い。私は嫌悪するに値する人間なのだ。


1079.
同一の対象について相異なる説明が互いに食い違ったり拮抗したり対立を引き起こしたりする場合、議論による棲み分けを行うことによって決着が付くこともあるが、それでその問題がすっかり片付いてしまったと考えるのは早計である。そもそも何故ホロン構造が出現するのか、と云う問いにはまだ一言も答えられていないからだ。これは要するに二十五世紀前からある普遍問題の現代版のひとつの変奏なのだが、何故或るものが或るものとして成立しているのかを問うこと無しに、世界についての根本的な問題について考える習慣を付けてはいけない。


1080.
認識論上の大半の問題は、全てのものが全てのものと関係している、と云う一点をきちんと理解していれば、容易に理解することが出来るものである。全てのものは原則的に無際限に連なる文脈の中に埋め込まれて初めて成立しており、厳密に言えばそれは一回限り、一度生起したら二度と同じものは出て来ない。何等かの普遍性や一般性の認識が成立し得るのは、そこで大胆な取捨選択が為されているからであり、多くのものを「夾雑物」として切り捨てることによって、一定のパターンが濾過されて来るのである。「同じ川は二度と流れない」と言うが、正確には「同じ川」などと云うのも拵え事に過ぎない。全てのものは絶えず変化している。ひとつの変化は他のものへの影響を通じて世界をそれ以前のものとは永久に異なったものにしてしまう。この不可逆の動きは連鎖的であるが、その繋がりがどのレベルで言い得ることなのか、これもまた恣意的な選択に掛かっている。「理由」や「動機」によって語られる行為の連なりやひとつの単語の意味から、もっと直接的に即物的なエネルギー変換に至るまで、それはそう語る際のコンテクストの決定に掛かっている。事象とは即ちそれぞれに一群の連なりを引き連れた関係性の塊同士の出会いであって、世界の或る局面同士の邂逅のことを指して言うのだが、その時何と何とが出会うかは予め先行的に決まっている訳ではない。その事象の普遍性の度合いもそれによって異なって来るが、これは究極的には全てゼロであって、一期一会が逆説的な宇宙の真の法則なのである。———これについては変奏が幾らでも作れるが言語哲学だろうと認知哲学だろうと、この基本さえ押さえておけば全て同じ構造を持った問題であると立ち所に理解出来る筈である。
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