1057.
自分でも嫌になる位カント的な物言いだとは思うのだが、所謂「善意」やら「同情」やらによって善行を施すことを第一とすべきではない。そうしたものは所謂力有る者の行動原理であって、仮令それが善王であろうと人を専制君主の座に就かせようとする傾向を備えたものである。相手が人間であるからこそ、その自由を最大限確保出来るよう取り計らってやらねばならない、と云う公平無私を目指した原理によってこそ、人は人類の一員として振舞うことが出来るのである。力の行使に伴う原始的な陶酔の裡でしか人類と云う単位の大きさに実質的な意味を持たせられない者達を甘やかしてやることはない。


1058.
「初めに言葉(Wort)があった」と云うのも、「初めに行為(Handlung)があった」と云うのも、どちらも正しい。言葉とはひとつの行為であり、行為とはひとつの言葉であって、どちらも形を持ち目的を潜在させた創出の試みであるからだ。世界を作る為の運動は永遠を生成させるのだが、生成された永遠は少なくともその固有の権利に於てその普遍性を要求し得るのであり、そしてその運動はその限りに於てその永遠に規定されるのである。


1059.
数年振りに或る知人に会い、結婚して子供まで作った(それとも「子供を作って結婚までした」だったろうか?)と云う近況報告を聞く。私としてはまさか「御愁傷様でした」と言う訳にもいかないので、当然の結果として偽善者と成らざるを得ない。他に一体どうすればいいと云うのか。


1060.
美は恐怖である。美は力である。美は圧倒的な存在の過剰爆発であり、徹底的な破壊である。何の説明も、釈明も、解釈も必要としない。それ自身の根拠をそれ自身の裡に孕んでいて何の関連付けをする必要も無い。それのみで全てを焼き尽くし埋め尽くす絶対、それこそが美である。その前ではあらゆるものが相対化されるどころかその全ての意味を剥奪され、単なる付属的な存在と化してその強力無比な遡求点へと収斂し、それ自体としては一切を否定される。あらゆる思想、道徳、観念が没落し、その余りの暴力性に文字通り息が出来なくなり窒息しそうになる。戦慄が戦慄を呼び、思わず何処かへ駆け込んで力の限りに「ギャーッ!」と絶叫したくなる。美の前では一切が無であり、そもそもが存在しない。そこにあるのは情け容赦の無い強力な顕現のみであって、一切の抵抗も、回避も、無視も、不可能になる。
 ———そんな美を経験した後で、人は同じ人間で居られるものだろうか? 自分がこの宇宙に於ては徹頭徹尾無価値なものであり、そして唯一の意味こそが存在すると知った後で、一体どんな顔をしてのうのうと同じ生を送れると云うのだろうか? ———この時、それが諸可能性のひとつに過ぎないと指摘することは余りに容易いが、何の反論にもならない。その様な事象が一度でも起こり得ると云うことが肝腎なのだからだ。この種のことは凡庸者向けの普遍妥当性をそもそも要求しないのである。


1061.
あの下衆野郎のことを懐かしく思い出す。あれに比べれば、私はまだまだ良識的な分別を備えたまともな人間だ。げに下衆野郎の利点と云うものは数多あるものだ。
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