0962.
失敗は人を言い訳で饒舌にする。私なぞ正にそれだ。だが私は少なくともそれが言い訳だと云うことを知っているし、況してや、他人の洩らした言い訳を鵜呑みにしてしまう程愚かではない。しかしそれにしても世人の口数の多いことと云ったら………。まぁこんな月並みで陳腐な文章を何を思ってかわざわざ書き下してしまうところからして、私にしたってよっぽどどうかしているに違い無いのだが。


0963.
自分の遺した断片に「註釈」が施されているのを知って、あの世で独り笑い続けている古代ギリシャの哲人を考えてみる………。


0964.
作者として個人名を冠すべき芸術と、集団のカテゴリーに属させるべき芸術がある。どちらがどちらへと間違えても、直ぐ様変調が、頽落が、失墜が始まる。例えば、ガウディが教会を建てたとしたらそれは「ガウディの」教会にしかならないだろうし、模倣者達がクトゥルー神話のゲームか何かを出したとしても、それはラヴクラフトの持っていたものとは似ても似つかぬヴィジョンをしか抱え込むことは出来なくなる。どちらの場合も不幸な勘違いとしか言い様が無いが、それで結構楽しんでしまう人々が相当数存在することもまた確かな事実である。こうした場合、当為者としてはこれを峻拒して構わないのだが。


0965.
何かに熱中してしまった後のどう仕様も無い気恥ずかしさ、罪悪感、そして今またその熱中した当の対象を裏切ってしまっていることへの後ろめたさ、悔悟の念。仮令真剣な議論の場に於てでさえ、そこに何か後ろ暗いもの、無知に因る愚行か偽善による白々しい芝居、その第一義的な意義を剥奪してしまう次元の存在を嗅ぎ付けずにはおかない私の性。どの道へと転んでみても、結局は引き裂かれる。ひとつの決断、ひとつの選択を為すことの恐るべき不可能性………。


0966.
世界と私の食らい合い、それ以外は皆、二次的な問題に過ぎない。


0967.
デモンに取り憑かれることを、金で買える一時の気慰みか何かだと思って疑わない連中、「人生の先輩」達から叩き込まれた処世訓を後生大事に金科玉条として抱え込んでいる連中、この世に本物の恐怖なんてものは存在しないと無邪気にも信じ込んでいる痴呆めいた顔、顔、顔、それ故余りにも安易なものに感動し、手近なところで納得することの出来るお手軽な精神達………。


0968.
何かを言えば必ず言い残しが出来る。何かを聞けば、必ず聞き洩らしが出来る。何かを見れば、必ず見落としが出来る。味わわれるべき無数の世界があり、探求されるべき変幻極まり無い色彩があり、忘却から救済されるべき無際限の眼差しがある。そのことを片時でも失念してしまえば、そこから君の精神は腐り、堕落し、正視するに耐えない老廃物と化してゆく。
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