0920.
特記すべき何事も無く平穏に終了するかに思われた一日をすっかりぶち壊してしまうのには、たったひとつの言葉、ひとつの目付き、ひとつの身振り、風のひとそよぎがあればもう十分である。不様乍らも朝から涙ぐましい努力を繰り返して、自ずと見苦しいものになろうとする傾向に逆らい、何とかかんとか下手糞な綱渡りをここまで続けて来た結果がこれだ。その日が被っていた見せ掛けの薄っぺらい完璧性の仮面は無残にも毟り取られ、円満に見えた球体は今やボロボロに削り取られ、見る影も無い有り様の儘情け容赦無く鏡の前に立たされる。頭を上げるとそこには、「有限者に定められた有限的な現実」と云う不愉快な輩が「やあい、ひっかかった」と言わんばかりにあっかんべをして見せているし、私はと言えば、すっかり萎縮してしまって手をもじもじと擦り合わせて、聞こえるか聞こえぬか程の小さな声で「はい、その通りです」と呟くことしか出来ないでいる。全く以てうんざりだ。最後の最後になって、今日一日が全くの徒労でしかなかったのを思い知らされるのには我慢がならない。確かに真実は人を賢く、単にそこらにごろんと転がって存在しているものどもようり幾分かは上等な代物にしてくれる。だが、今は仮令愚かしくあろうとも、真実には暫くの間引っ込んでいて欲しい。夜郎自大な傲岸さを後で面罵されることになろうとも。自足して在ると云う幻影にもう少し浸っていたい。仮令その一切が迷夢であろうと解ってはいても、せめて数瞬位はそのぬるま湯の様な安逸の中でくてりと緊張を解させて欲しい。真実はもう沢山だ。頼むから一寸の間神々の真似事をさせて欲しい。


0921.
旅に出る。見知らぬ異邦人が、私に親切を施してやろうと笑顔を見せて近付いて来る。どうか放っておいて欲しい、私はこの抑鬱の風景の中でこの上も無く私自身なのだから、誰が手放したりするものか。


0922.
幸福の自慢と不幸の自慢とはよく似ていて、実の所違いなぞ殆ど無い。要するに、話の種になればそれでいいのだ。


0923.
「ナントカ市カントカ町の1番地と2番地のそれぞれの住人の本質的な相違は何か」「ホニャララ荘301号室の歴代住人全員を貫いて見られる倫理観は」「ジュゲム産婦人科で5月3日の19:30以前に生まれたる子供のメンタリズムは19:31以降に生まれたる子のそれに比べてどの点が優れているか」「チョメチョメ新興埋め立て団地の輝かしい変遷について」———こんなものはギャグマンガのネタにしかならない。私がナショナリズムの言説についていちいち取り合いたくない理由も同じ様なものである。どうやったら只でさえ狭苦しいこの監獄の中で、自分からわざわざタコツボに頭を突っ込んで窒息せずにいられるのか、私には見当も付かない(それとも疾うに窒息を起こしていて脳機能障害でも患っているのだろうか)。


0924.
せめて中学や高校で習った程度のことをきちんと理解していれば、この社会ももう少し住み良くなるだろうとは思うのだが、しかしこの医者も看守も居ない患者だけの巨大な精神病院の中で、皆結構上手くやっていられている様なのだ………。
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