0836.
生まれる時代を間違えた、と思うことはよくある。だが私は人類の進歩を信じているので、今よりもっと空腹で、もっと不潔で、世界3による情報も少なく、狭い土地に縛り付けられていたもっと短い人生を送りたいとは思わない。従って必然的に、私の憧憬は未だ生まれて来てはいない仮空上の時代へと、今よりはもう少し肉体の軛から解放されているであろう可能的世界へと向かうことになる。仮令その時代に生きたとしてもまだ残る悩みもあろう。だが、明日はどうやって食べて行こうなどと云うことで頭が一杯な内は、そうした悩みも又、低俗な雑種にしか成れないことも事実である。この惨めさから脱出したい、だが、どうせ惨めであり続けるのであれば、少しは品のある惨めさであって欲しい………私の一見矛盾する様な願望を述べるとすると、こんな感じになりもしようか。


0837.
何もかもがもう手遅れだ。だが果たして、手遅れにならなかった状態と云うものが有り得たのだろうか。


0838.
鈍感さの欠如と云うのは一種の無能力であり、罪悪である。自分の手に負えるものだけを見聞きし、感じ、考えること———これはこの無限に多様な情報を潜在として孕んでいるこの宇宙の中で、そのそれぞれの形を成立させる為に不可欠のものとしてあらゆる生物が身に付けた自然の大いなる知恵である。在るだけで満足しようとしない不埒な輩には、当然、本来受けなくとも良い筈だった災いが降り掛かることになる。分不相応に不感症を治そうとするなど、何と大胆な無謀者なのだろうか。


0839.
時として降伏することは戦い続けることよりも勇気が要る。現状維持が単なる現実逃避にしか過ぎない場合など、それこそ無数にある。殊に、自分の人生が既に一度終わりを迎えてしまい、後は際限無く延々と繰り返されるリテイク作業だけだなどと云う屈辱に耐えるのは、曲がりなりにも自尊心を持っている者にとっては非常に困難な課題である。だが厳然たる真実と云うものは、我々偏狭で独善的な精神達の楽観的過ぎる願望なぞよりももっとずっと強いものなのであって、そして白痴よりは道化の方がまだましだと思う者にしてみれば、何も言わずに唯それに従って行くより他に道は無いものなのだ。


0840.
「生まれいづる悩み」なぞ、「生まれいづることの悩み」に比べたら何程のものでもない。尤も我々の暗愚が、我々がそうした現実に直面することを防いでくれているのだが。
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