0820.
私のこのどたばたと騒々しい雑な音しか出さない鈍重な躯*と同じ様に、救い難い程に愚鈍なこの頭脳のことを恨めしく思ったことは何度もある。だが世界は世間様で言われている程単純ではないと云うことに気が付く程度には鋭いので、私はその広大無辺な観念的広がりを前にして、己が無力さを砂を噛む思いで思い知ることになる。
 梶井基次郎が描いている様に、私が「村人達の酒宴」に参加するには何か知らのデモーニッシュな暴力が必要なのだが、それは実はそう言ってみただけで、本当は不可能なことを知っているが故に、その引き裂かれてしまう感覚を誤魔化そうとして哄笑するしかなくなるのだ。
 どちらに転んでも私の居場所は無い。実存しているとはつまり、この宙ぶらりんの状態で居ることを指す。世界と自身からの離反と疎外こそが、我々の精神の本質的特性なのだ。

*原文では「身區」(表記不可)。


0821.
政治経済の領域の話なのだが、どうしてここまで低脳な偏狭主義者共が大手を振ってのさばっているのか全く理解出来ない。居るのは拝金主義者か奴隷かでしかないのだが、どちらもとても友人なぞにはしたくない。そして私は基本的に阿呆の相手はしたくないので、人前では屡々沈黙を強いられることになる。


0822.
寝不足の儘で起きて来る人間はまだ寝ているのと同じことだ。だから世の忙しい「社会人」諸君は居ても居なくても別にそれで何か大した違いが生じる訳ではない。私はと云えば、こうして時々うつらうつらと微睡みの中で、自分が眠りに圧し潰されようとしていることを自覚する瞬間が時々ある位なのだが、それにしても凡そ不充分な睡眠と云うものは、目覚めようとはしていつつも、いきなりスロットルを全開にすることが出来ない人種にとって、全くの害悪以外の何物でもない。


0823.
一公民としての行動の規準として人権の思想を選択することには何の躊躇いも無い。それは現代の文明のひとつの完成形を示す未だ十全に獲得されざる理念であり、現在の我々———ここで言う「我々」とは、この文明を成立させている要因たることを自覚した人類全てを指して言う———がその過ちを正す為の物差しである。人権の思想が果たして普遍的原理として受け入れるべきものなのかどうかについては子供の頃にはそれなりに精一杯悩んだものではあるが、現代会に於ける人権が実際的に選択すべきものとしては他にそれ以上の可能性を思い付かなかったのであるから、その妥当性についての確信は、遅くとも高校時代の初め頃までには、既に揺るぎ無いものとなっていた。それは今でも全く変わりは無い。


0824.
私はとにかく野心の強い男なので、自分の生み出した作品には、所詮原理的にはコンテクストに縛られた有限的な価値しか持ち得ぬと判ってはいても、それでも或る程度の普遍性は持っていて欲しいと思う。だから私は、私の作品が仮令外国語に翻訳されたとしても、その翻訳自体が必然的に意味を損ったりすることが無いように、文章に可変性を持たせるよう心懸けている積もりではある(それに結果として成功しているかどうかはまた別の話であるが)。ところが詩は本質的に翻訳不可能なものである。音楽が言葉によって置き換えることが出来ないのと同じ様に、或る言語によって書かれた詩の言葉は、他の言葉によってその核心を表現し尽くすことは出来ない。そう思っている私が、何故か詩を———しかも散文詩よりも余程タチの悪い定型詩なんぞを書いたりする。言い訳をさせて貰えばそれはこれは詩の方から勝手に生まれて来てしまうからいけないのであって、何も好きこのんで私が頭を捻って考え出している訳ではない。
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