0816.
過去について語る時は、常に、その過去を同定する我々自身の眼差しの存在を忘れてはいけない。その意味で、過去とは常に未来との関わりの中でしか捉えられない。また単に事実的なるものとしての過去と、「古層に眠っている」と云う意味での、我々の発見を未来を於て待っているものとしてのancientなものを取り違えてはいけない。目指すべきものは全て未来に属しているのであって、過去に内在している訳ではない。解釈学的循環の輪は、常に未来から手を伸ばして来ているのである。事実の当為的側面により深く関わねばならない時は、このことをより一層意識しておくべし。自分が存在規定の活動を常時行っていると云う自覚による自律に対して、自分を甘やかしてはいけない。


0817.
理由の見付かる自殺なぞ、単なる誤解の可能性を別とすれば、先ず100%下らないものと思って間違い無い。一言で突き放してしまうことを不可能にするあの強固な言表不可能性の鎧を脱ぎ捨てた死なぞ、果たしてそんなものを「死」と呼んで良いものであろうか? 世界内の存在者の限界に縛られた儘に選択された死などと云うものは、単なる具体的存在の持続の中断であり、個物としての規定性の後先考えない放棄にしか過ぎない。


0818.
私の一存在者としての諸々の認知特性の部分と全体、基本的に表記され高度に抽象化された言語を通してのイメージ構成(概念とそれら以外の経路による)認知の潜在的な多様性、切り詰めと過剰を齎すもの、我々の存在変容の一様態としての知の同定の方法、それこそが心の哲学に於けるクオリア問題の核心である。
 一人称的な記述と三人称的な記述の間のギャップは、これに比べればそれ程重大視すべき問題ではない。どちらもこの宇宙を理解する上で我々が言語と云う媒体を通じて制作した世界であると云う意味では等価であり、二つのホロンが互いに競合しているだけに過ぎない。それらがどれだけの、それを意味ある情報として認知する為に必要となる実感と説得力を持つものなのかは、それらを認知する側の歴史性に依存するのであって、全てとは言う積もりはないが、基本的にこれは翻訳可能なものである(但しこれは人間の「生まれ」を「育ち」によってどれだけ変化させられるか、と云う問題に直結しており、そこで自ずと出て来る技術的な限界が、このギャップを埋める為の可変領域を決定する。その意味ではそこに「自然的な翻訳不可能性」が出て来ることを認めてもいい)。
 要は我々が「知る」と云う事態を同定する際の幅の広さがこの問題を生み出しているのであり、その各々に於ける主体の認知様態に関して、部分は全体を尽くせない、と云う点を心しておけば良いのである。下位のホロン群を枚挙してみたところで、それらのホロンの成立を可能にするところのより根底的なホロンが生まれて来る訳ではない。あらゆる知にはそれを支える物理的実体が存在していると云うこと、そしてそこで同定されるそれぞれの「知」には、ホロン的な存在様態と独自の歴史性が付いて回ると云うこと、この事実を忘れないでいることである。
 言語の無力さ、矮小さを心得ておくべし。だが、下位のホロンに参与しているからと云って、悲観することは無い。やっていることは無意味ではない。我々としては、寧ろその上位のホロンの豊穣さをこそ喜んで享受すべきではなかろうか。


0819.
私だって何も自分から好きこのんで実存してしまっている訳ではない。だが今更子供の頃の背丈に戻れと言われても無理なのと同じ話で、現に既にここにこうして実存してしまっている以上、そこで何とか遣繰りしてゆくしかないじゃあないか。
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