0775.
死ぬことを納得したり昇華させたりする方法は色々ある。だが、一個の肉体として死ぬことを納得したり昇華させたりする方法は唯の一つも無い! 死後の過程を含めた一連の肉体的過程としての死は、単破壊と腐敗、それ以上のものではない。全ての人間的眼差しを拒絶する存在の過剰の前では、死ぬに値するものとしての現在の死も、生きたことに値するものとしての生の過去も、全てが没落を余儀無くされ、その意義を失う。一個の肉体の死が、一個の肉体でもあったものの死へと回復するまでには、長い長い時間が掛かる。しかもその回復の過程は往々にしてひとりの人間の死と言い得るまでに昇格出来ると云う見込み無しで行われなければならない………。
 我々の日々の生活を形作っている種々の〈形〉は、脆く、崩れ易い。そして、PSとしての我々は、屡々、つまりは我々を一個の肉体として認知させるところのOS*としての我々の暴虐な侵略を受け、運が良ければ自らの無力さを悟ることになる。そう、我々は無力なのだ。肉体の領域に属する諸反応が我々の意識を凌駕し圧倒する時、我々はそれまで自分が積み上げて来た一切の歴史が全く舞台に上げられないと云う事実を目の当たりにしなくてはならない。強靱な精神力や周囲の助けがあれば、それに耐え、妥協し、一定の盟約関係を期待することは或いは可能かも知れない。だが、それをそれ自体として受け入れること、これは何処の誰にだって出来はしない。

*「Psychoanalytic Subject」と「Organic Subject」のこと。これらは斉藤環の用語。


0776.
希望と呪詛とは、一般に思われている程懸離れたものではない。どちらも、今ここには無いものへの期待———具体的に思い描かれているか、或いは否定形によってのみ表されるかどうかは別として———に裏付けられていると云う点では同じである。現時点で偶々裏か表が出ていて、別の時には偶々その反対側が出ているからと云って、一枚のコインは一枚のコインであると云う事実を見誤ってはならない。


0777.
若し君が〈真実〉に少しでも近付きたいと希うのであれば、君が今相手にしているものが物理学だろうが、生物学だろうが、社会学だろうが、史学だろうが、情報理論だろうが、数学だろうが、詩、音楽、絵画、神話学、宗教学、心理学………何だろうが、そんなことは一切関係無い。宇宙が君の中で語り始めようとする物語と、素直に根気良く対話を続けることを覚えることだ、そして君も、君の見る宇宙も、共に宇宙の作り出す形のひとつであることを忘れないことだ。何気無く過ごしているだけでは気付かない深い秩序に思いを巡らせよ。だが、そのことでくよくよと思い悩むな。全てが関係の裡に、つまりは変化の裡にあることを思い出せば、君の取るあらゆる行為が、結局は〈真実〉の発露に他ならぬことを知るだろう。時と場合によって分を弁えよ。だがそれを第一義のものと考える愚を犯すな。間違えてはいけない、君は既にして最初から宇宙なのだ。要は、そのことを如何にして思い出すかと云うことなのだ。


0778.
長い長い繭の生の中で、私は変わる。一度死んで、新しいものに成る。生まれ変わる。何度でも、何度でも生まれ変わろう、あの扉に再び出会うまでは。仮令何度失われてしまおうとも、新しい生は紡ぐことが出来る。求め、そして待ち、出会うその瞬間に備える———それこそが今度の生を生きている私の状態の真実であり、私が今も発狂しないでいられることの深い理由である。
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