0748.
勘違いしてはならないのは、喪失が先ず初めにありき、と云う場合だ。この場合所謂「実体験」と云うやつは元々初めから何も無かった空白を間に合わせで埋めるだけの代用品に過ぎない。「実体験」に特権的な優先権を与え、全ての原因と責任と見い出されるべき価値の一切合財をそこに帰してしまうと云うことは、一見逆説的に聞こえるかも知れないが、救い難い空理夢想に身を委ね切ってしまうことに他ならない。これに気付くか気付かないかと云うことはほんの些細な違いなのだが(特に、気付いてしまった者にとってはそうだ)、これは恐らく意識の成り立ちそのものから来る欺瞞に因るものだろうと思う。我々の脳は世界を欲望するものとしての我々の自我を常時反省する様には出来ていない。仮に今ここで欠落感があったとして、その対象もまた存在しているとする場合、その対象は、投影されたものとしてではなく、先行して存在していた筈のものとして意識に現れる。欠落の先行は、時間的には後になってから反省として初めて判明する為、これらを分裂させて見る、と云うことに気が付いた者でも、それは二次的な加工、ぺてんに過ぎないと思ってしまう場合が多い。無論この過程には原理的に終わりが無く、終着点からまた起点はと舞い戻ってしまうのだが、仮令時間的に後になって発見されたルートであっても、より包括的な説明が可能である様な図式を、精神は選択してそれを自らのものとして受け入れることを学ばなければならない。繰り返そう、「実体験」がおまけでしかない場合を間違えてはいけない。喪失の対象を具体的に固定させたいと云う欲求があることは認めても宜しい。だがその欲求を認知しないで済まそうとすることや、その欲求にすっかり頼り切ってしまうことは、知的誠実さのある精神のやることではない。確かに世界はどう仕様も無い。だが、何がどう仕様も無いのかを勘違いした儘ではいけない。分裂が見い出される以上、それを自覚すること。皮肉めいて聞こえるかも知れないが、それこそが、精神を正気の状態へと研ぎ澄まして行く為の第一歩なのだ。


0749.
本当にこの世界は日々新しい驚きに満ちている。だが正直に言って無い方がいいと思える驚きも沢山ある。新聞を読む時なぞは特にそう思う。どうも自分は人間の行動に関しては根本に於て楽観主義者なのではないだろうかと思うのもそんな時だ。まともな人間がよもやこんな愚かしい真似を、と思う度に、あゝそれでは自分は暗黙の裡に人間はもっと賢い行動をする筈だと想定していたことに気が付くからだ。人文主義的な想像力が全く欠落した者達が地上の王冠を戴く世の中に我々は住んでいるが、人間の暗部、と言うよりも卑小さを洞察し得るだけの透徹した想像力が無い辺り、私もまだまだ修行不足と云う気がする。別の声は、そんな楽観主義なんてものは愚かなものだ、現実ってやつはもっともっと惨め他らしいものだと囁き、また別の声は、悲観主義も楽観主義も共に誤っている、結局は部分に囚われていると云う点ではどちらも同じであると囁く。そして形を成すか成さぬかの、非常に不確かで不透明な眼差しが、何処か未だ見知らぬ地平を見詰めている………。


0750.
私は今だに、私と同じ様な魂を備えた存在が私以外に何十億も存在していると云う事実を想像することに困難を覚える。他人と云うものは私にとってはどれも機械人形と同じ、結局はたどたどしい乍らも自分の心のパターンを相手に投影することによって何とか酷いことにはならずに済んでいる有様だ。だがこんな私でも(いや寧ろこんな私だからこそだろうか)、他人に加えられた不当な暴力や抑圧、差別等に対しては義憤を覚えることだけは上手くなった。そうしたタイプの苦しみを判断するのに際しては、人権と云う明確な基準となるべき思想が予め与えられているからだろう。押して来る力がはっきりしている場合、押し返す為の動因として何を必要とするかもまた明確になるのだ。さてこんな私を私は偽善者と呼ぶべきだろうか? 一次的な行動の面のみに注目した場合は決してそうした非難は当たるまいとは思う。だが長期的に見た場合、物事を馬鹿正直にではなく戦略と云う側面から見た場合、そうとも断言し切れぬ私がここにいる。そしてまたそう考えること自体がそもそも偽善的な行為かも知れぬと云う自覚がある。
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