0737.
気懈い。とにかく気懈い。自分の肉体を喰い尽くしたくなる程に気懈い。


0738.
また「あちらの世界に片足を突っ込んだ」儘で人前に顔を晒してしまった。本当は「こちらの世界に片足を突っ込んでいる」ことを気取られない様にしなければ。


0739.
cogitoを終着点、乃至終着点として措定されたもの、としてではなく、始源、つまりは主体として考える場合、あらゆる言明は説明的(narrative)ではなく遂行的(performative)であり、世界制作(world-making)であると言うのは正しい。*遅かれ早かれ、こちらが一方的に働き掛けているばかりではなく、こちらに先行乃至対立している「外部」(対象ではなく飽く迄行為として、であるが)を措定してやりたいと云う誘惑が忍び寄って来る筈であるが、、これはそもそも一元論と云うものが境界を持つ形を無効にし廃棄することではなくて、逆に形を極限にまで押し広げることである、と云う事実から来る当然の帰結である。そしてこれも当たり前のことなのだが、その時措定される「外部」なるものは、要するに始源を否定し、或いはその特権的地位を剥奪するものとして現れる、また別の形にしか過ぎない。何故なら、cogitoはその本質から言って、即自的なものに留まることは出来ず、常にそれを反省する別の眼差しを必要としているからである。しかもこれには原則的に和解が期待出来る訳でもない。境界を持たない、或いは持とうとしない世界は、境界を持っている世界よりも大きいが、cogitoは何処迄も自らに特権を与えこれを形無きものに譲ろうとしないのである。

*これ自体極めて遂行的な性格の強い言明ではある。


0740.
所謂性欲や求愛行動と呼ばれるものの生理的側面と文化的側面を一緒くたにして何でもかんでも普遍化してしまう人種が蔓延っているのは、我々の様な種類の人間にとっては真に頭の痛いことではあるのだが、しかし自分の手の届く範囲を間違えてしまうと云うのは、人間がよく犯す過ちである。若し本当に相手に遠慮せずものが言える状況に幸運にも巡り合わせた場合には、短気を起こさず親切にこう言ってあげよう、「お前アホか」と。


0741
例えば既存の誰か他人の作った概念を使うのではなく、自分で新しい概念を作り出してゆかねばならない思考を行う時だ、あゝ、私の脳はもう成長を止めてしまって、これからはずっと死滅して行く一方なのだとしみじみ感じるのは。
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