0614.
私は滅多に旅行はしないのだが、行く時は一人で行く。他の誰にも邪魔されたくはない。一人でももう多過ぎる位だ。


0615.
永遠の定常状態の下では、何物も知られることはない。運動が起こり、変化が生じ、差異が発生して初めて、或るものをそのものとして同一的に捉えることが可能となる。認識のそもそもの源泉は認識されるそのものを巡る往復運動である。
 そして記憶と云う形で経験を蓄積してゆくことによって、この認識主体が扱うことの出来るキャパシティ領域は変化(単純に「増大」ではない)してくる。この場合、記憶することは単に貯め込むと云うことではなくそれ自身変容することを意味する(尤も、そうしたことを言い得る為には、その場合その認識主体の同一性が確保されていると見做すことが前提条件である)。


0616.
自分とは異なる人間について、話がその境遇についてのことであれば、「神の恩寵なかりせば、我もまた斯くならむ」———この一節で大抵の不愉快は和らげることが出来る。だが殊気質や知性や想像力、品位に関して言うならば、「物事には限度と云うものがある」。


0617.
部分を全体と取り違える人間、目の前の事象から想像力をほんの一歩でさえ踏み出してみようとしない人間、表層ばかり見て総合的にものを見ると云うことも知らない人間、ひとつの断面を完全な表現と勘違いする人間、他人が拵えた言葉や概念を鵜呑みにする人間、文脈を意識することを知らない人間、δοχαを解きほぐす為にはどうすればいいかどころか、そもそもそんな事態そのものを理解する能力を持ち合わせていない人間———そんな人間共に囲まれて無事とは言えないまでも今まで何とか生き延びられてきたところを見ると、私の忍耐力もそれ程捨てたものではない様に思えてくる。


0618.
どんな形而上学的な戯言を喋ろうと(人類はどんな可能性にも手を出し、それを真剣に考察する権利を持ち、また義務を負っている)結構なのだが、自分がそんなことに現を抜かしていられるのも、自分は明日の食糧について思い悩む必要も無いし(いや、飽く迄比較的に、の話である)、日常的な破壊と暴力に怯える心配も無く、それなりの暇を作れるだけには充分豊かであると云う事実は、必ず心の片隅に留めておいて、片時もすっかり忘れてしまうことがない様にしなければならない。 そして人類がこれから如何なる高みを目指すべきなのかと云うことを考える際には、必ずそうした認識の上に立ってでなければならない。我々が考えるのは脳、つまりは肉体の一部によってであって、高尚な思索をも含む全ての余剰行為には物質的な基盤が存在するのだと云う事実を決して疎かにしてはならない。
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