0598.
帰りの電車の中で、二人の俗物が話しているのが聞こえた。直ぐ隣だったので嫌でも耳に入った。俗物的な考え方、俗物的な生き方、俗物的な人生設計、誰か他の知らない人間が決めた得体の知れない発想を嬉々として受け入れ、それに生き甲斐と世界の価値とを感じ、目の前の肉体に自分を閉じ込め、眠り続けているのに自分は誰よりも目が覚めていると思い込み、それらに何か真に生きるべき意味があると本気で信じて疑うことを知らない………その凄まじいばかりの下卑た根性に私は圧倒された。地べたを這い摺り回る様に飲み、食べ、寝、生殖し、排泄する、この得体の知れない不気味な生き物………自分の失ったものなど一瞬たりとも想像したことも無い様なその目………。
 ………目的の駅に着いて、ようやっと解放されると安堵して私は電車から降りた。すると目の前を、今の二人とそっくり同じ格好をした男達が数十、数百とぞろぞろ歩いていた。比喩ではなく文字通り、私は暫し吐き気を堪えねばならなかった。


0599.
微睡みが、その甘美な味わいも一寸した物音で直ぐ壊れてしまう様な繊細な風味も持っていない時、私をこの肉体的世界に結び付けておくだけの理由として一体何を挙げることが出来ると云うのだろうか。


0600.
私は嘘を吐くのが下手なので、他人と雑談しなければならない羽目に陥った時などは、極力口を噤んでおかねばならない。熱心に話を振って来る相手に対して、如何にもな作り笑いと気の無い相槌のみしか返さないと云うのは失礼に当たる———少なくとも面白味の無い男と思われることだろうが、口を開けば開いたで、そんなこととは比較にならぬ位失礼なことを仕出かしてしまう虞れがあるのだ。


0601.
欠落とその充足をぼんやりと予感させること、しかし決して「不可侵」と裏側に書かれたヴェールを取り去らないこと———私の中の下衆野郎が、時々———いや誤魔化してはいけない、しょっちゅう、私にそう囁き掛けて来る。


0602.
止せばいのに姿見を見てみる。もっと意義のある思索や瞑想や読書に注ぎ込めたかも知れない多大な時間が、こんなものを食わせてやる為に費やされたのかと思うと、気が遠くなる。無論、上手く制御され巧みにな導きを得た肉体が、時に単に書斎に籠っているだけでは瞥見することさえ叶わない素晴らしい未知の門を開いてくれることがあるのを私は知っている。だがだからと云って、この煩わしい日常に於て、肉体と云うものが非常に多くの機会を捉えて私の不完全さを思い出させてくれようとすることの不愉快さは、どうなるものでもない。


0603.
憎悪と嫌悪と軽蔑の混乱の中から愛を語ろう、個と普遍とを共に見据える視野を持ち、尚且つそれに絶望しないようにしよう、世界は永遠不変であると信じよう、だが同時に世界は成長し得ると信じよう、目の前にある生を生きよう、そして同時に、それが宇宙の生に繋がっていることを感じよう、この静かな畏敬と歓喜の念を忘れずにいよう———等々と言いつつも私は、呆れるばかりの破壊と殺戮と没落の数々を目の当たりにし乍ら尚、絶望によってではなく希望によって行動する人間のことをどうも素直に信用することが出来ないでいる。
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