0591.
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損………人生の真実について、これ程含蓄のある台詞はそう多くはない。だがこの文句は、踊ることに飽きたり疲れたりしてしまった者や、そもそも阿呆にはなりたくない者に対しては、何の助言も与えてはくれない。


0592.
少なくとも20代の始め頃までは、自分の脳細胞が今、物凄い勢いで成長していっているのだと云うことが実感として感じられた。だが20代も半ばを過ぎてしまうと、後はもう、今まで蓄積して来たストックをひたすら食い潰してゆくだけの、唯々死につつある存在と化してしまった。


0593.
家屋:働かない間、不用な肉体を仕舞っておく所。


0594.
大衆は妄信し易い。だが、その実腹の底では何も信じてなどいない。ひとつの観念に齧り付くだけの強度を連中はそもそも持ち合わせてはいないからだ。連中にとって言葉は二次的以下のものに過ぎない。 ニヒリズムと云う文句すら、連中の頭上をぽかんとした顔で素通りして行ってしまう。


0595.
時々、どう仕様も無く人類を愛したいと云う衝動に駆られることがある。だがそれらは、現実に厳然と存在している余りの愚劣愚昧を前にして、また絶望を深めるだけに終わってゆく。それは条件付きの愛だと非難されるだろうか? だが、良いものを求めて何が悪い………。それに何にせよ行動する為には、我々は何の道その愚昧とは異なる愚昧を排除する為に動かねばならぬのだ。「排除する勿れ」と触れて回ることさえ、それ自体に潜む排除の性格を捨て切れないではないか………。


0596.
愚昧の、悪の欠如の、深みの無い忘却の存在を許す寛大さのことを、何と呼んだらいいのだろう………。


0597.
私が愚にもつかぬ小説や詩ばかりを書いて、結局一篇も纏まった形の論文をものしようとしないことには、確かに逃避の側面がある。あらゆる言明を括弧付きに、特定の文脈に限定された作り事に、ノンフィクションではなくフィクションにしておこうと云う行動は、明らかに責任回避欲求の、とんだ及び腰根性の表れだ。現実について幾ら包括的な語り方をしようと心掛けても、結局は、何か他の断面を犠牲にすること無しにひとつのことを語ることなぞ出来はしない。他の可能性を裏切ることへの虞れが、私の書くどの文章の行間からも滲み出ている。語れなかったことどもの亡霊がぬっと私の前に現れてもそれを鎮める方法を私は知らない。どの患者も救いたいのに、結局は一人だけを選ばざるを得なかった医者に憑き纏う様な、或いは、大事故の中でたった一人だけ生き残ってしまった者が感じる様な罪悪感が遣って来るのがどうしても厭で堪らない。こうした表現の下に私の書くものの傾向を規定することさえ、今とは全く別の規定があり得ることを無視して行われている、と云う事実が私を苦しめ続ける。私はそのジレンマに耐えられない。そのダブル・スタンダードどころかマルチ・スタンダードに我慢が出来ない。
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