0578.
人生には、訳の分からないものに費やしていいだけの時間は無い。だが自分は舞台袖に隠れて役者と観客とを同時に煙に巻いて眺めていたいと云う陰険な窃視症が、時折熱病の様に、私の単純明快志向に反逆する。


0579.
行為に於て、我々は一本の流れの様に只先へ先へと進んでいる訳ではない。投げ網を投げてグイグイと未来を手繰り寄せ乍ら、未来と過去とを接近させてゆくのだ。記憶に於ても同じである。過去に投げられる投げ網を投げるのは他ならぬ現在に居る我々である。我々は習い性となってしまっているので殆ど意識されない手探りの中で、〈現在〉と云うものの範囲とその軌跡とを確定してゆく。我々は海に浮かんだ一艘の小舟の様なものであるが、その帯域と進路は常に一定と云う訳ではない。幾つもの潮のうねりが、我々の〈現在〉を掻き乱し、未来と過去とを奇妙な方向へと押し遣る。我々は過去から未来へと不可逆の動きをしてはいるが、その実体部分を構成する核となる〈現在〉は、常に揺れ動いているのである。


0580.
自分にまだ犯罪歴が無いのでホッとする。今更真っ当な常識的人間に更正しろと言われても無理な話だからだ。


0581.
無節操を臨機応変と間違える人間は多い。そもそもそれ以前に両者を区別することが意味を成さない人間はもっと多い。


0582.
真ッ直ぐに理想を語ることが出来ない社会なぞ、未来の世代に遺す価値は無い。


0583.
誰も自分でシナリオを書こうとはしない。顔の見えない巨大な作者の書いた筋書きに追い付こうと懸命に演技しているだけだ。全てが見えざる演出家の手によって殆ど自動的に進行してゆく。与えられた箱庭の中で皆自分が自由だと思い込んでいる。何処かの誰かが敷いたレールの上をひたすら走り乍ら、一個人の生などと云うものが可能であり且つ現在していると思い込んでいる。無論何のことを言っているのか理解しては貰えないだろう。蜜蜂の巣の中を忙しく働き回る蜜蜂に向かって、お前達は本能に従って動いているんだと言ってみたところで、良くてまぁきょとんとした顔をされるのが精々だ。全く別の世界が巣の外には広がっていることなぞ、彼等には考え付きもしない。誰もが自分で自分を閉じ込めていて、しかもそのことに気が付かない。自らの首に填めた首輪の鎖をじゃらじゃらと弄び乍ら、誰もが盲目的にその一生を終えて行く。もうずっと窖の中に居乍らそのことを知らず、そのことについて嫌悪や軽蔑、絶望の類いすら、未だ曾て経験したことが無い。見えざる手が彼等を駒の様に扱っているのに、自分がとにかく動いていると云うことに嬉々として、それが誰の、何の力に因るものなのかは問おうとしないし、問うたことも無い。密室に居るのに窒息せず、鳥籠の中に居るのに、自分の羽搏けるのは結局この程度なのだと思い込んでいる。誰も違和感を感じない、何も疑問に思わない、書き割りに気付かない。台詞をなぞっているだけ。
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