0541.
実に愚劣の極みとしか言い様の無い戦争、安穏とした日常と云うものに対して疑義と不信感を抱かせずにはおかない飢餓と貧困、思わず誰かを痛罵したくなる様な失業・雇用問題、想像力の不足と抑圧を幾ら嘆いてみても嘆き足りない環境破壊、人類の創造的知性の前に厳然と立ちはだかる数学上の難問、人類が探査の手を伸ばして来るのを待ちくたびれている大宇宙、世界そのものの在り方を決定する魂の大きさ、あらゆるものがあらゆるものを反映する大いなる関係性*………それら全てが、如何にこの私の退屈を紛らせてくれるかと云う基準から測られる。如何にして一時このどうしようもなく白けた既知感を忘れさせ、この途方も無く巨大な空漠のことを見ずに済むようにさせてくれるか、そうした基準からあらゆる重大問題の価値が決定される。それは恰も実践理性がSeinではなくSolleの領域に自然権を措定するが如きであり、「実存は本質に先立つ」と云うあののほほんと無神経な台詞が権利章典か何かの様に高らかに宣言されるが如くである。実に、私の心を掻き乱し、騒がせ、その限界から連れ出し、押し広げ、飛翔させ、沈潜させ、ときめかせ、興奮させ、更なる思考を強制するあらゆる事柄は、ぽっかりと空いた隙き間を埋める為の大掛かりが詰め物であり、酒や煙草やあらゆる麻薬等と同じく、刺激であり、鎮静剤であり、要するにあらゆる深淵を忘却する為の便利な道具である。適切な言い訳と云うものは有る。だが、如何なる言い訳も無効になる時期と云うものがある。そうした時期を可能にしている幾つかの条件と云うものもある。だがそうした時期にはそんな条件のことなぞ考えてみても真昼の懐中電灯と同じでものの役にも立ちはしない。

*私の王国は私の頭脳の裡にこそあるので、友人知人と歓談したり旅行したり(一人の場合はまた別であるが)とか云った「愉しみ」なぞはそもそもものの数に入らない。


0542.
ことここに至っても、所謂ポストモダンを自称、乃至他称される人々が、大きな物語 (グランド・セオリー )に手を出そうとしないのは単なる怠慢である。何せあれだけ巨大な役者が大きな顔で好き勝手な台詞をほざいいて暴れ回っていると云うのに、自分にオリジナリティーが無いと云うそれだけの理由でそれを(たしな )めるのを躊躇っているのは、単に自分には未来を覗き込むだけの度胸が無いと告白している様なものだ。フランシス・フクヤマの言う「歴史の終焉」が単に勝ち組世界の一時的な雰囲気を表しているのに過ぎないのと同じで、この地球上にはまだまだ歴史を動かしてゆかねばならぬ地域が山程存在する。世界の全体性を回復しようと云う試みは簡単に手放してはならない。そこから取り零されてしまうものが出て来るだろうからと云って、臆病になってはならない。


0543.
「楽しめ」「自発的に楽しめ」「心から楽しめ」「白痴的に楽しめ」「意義を感じろ」「やり甲斐を感じろ」「生き甲斐を感じろ」等々と云う命法が、公民としてのどの舞台にも行き渡っている。これでは私が「世の中とは何とつまらない所だろう」と断じたとしても致し方無いことではあるまいか。


0544.
世界を書き留めねばと思う。忘れない様に記録しておかねばと思う。だが指の間から砂が零れ落ちる様に、世界はそんな思惑にはお構い無く容赦無しに変化を続けて行く。そこで私は益々焦り、絶望のみを深めて行く。その繰り返し。
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