0486.
私もまた星空を眺めていて足元の井戸が見えずに落っこちて奴隷女に笑われるスターゲイザーの一人だ。だが無限の空間と、永遠をその檻とする時間とを相手にしていた頃と比べて、人類は堕落した。歴史文明と云う中途半端な代物が、放っておいても我々の思索の重要なテーマとしての意義を自己主張して来る。何とも面倒な時代になったものだ。


0487.
今日また私は、長い間忘れていたものを喪った。空は何処までも澄んで、高かった。こうして私にはまたひとつ、前へ進む為の動機が増えたと云う訳だ。


0488.
絶叫したり泣き喚いたり、或いは———こちらの方が私には相応しいが———笑ったりはしない。唯大きく息を吸い、厳粛な思考に身を委ねるだけだ。


0489.
「恋に恋するお年頃」とはよく言うが、確かに、ロマン主義的心性は必然的に、その対象を自己に求めねばならない。………少なくとも、まともな反省能力を持った者なら、そうである筈だ。しかし現実世界に於けるその被害者は本人だけとは限らない。迷惑な話である。


0490.
闇の淵に沈んでいる時の私の顔を、何故か彼は優しい顔だと言う。試しにニヤリと陰気な笑みを返してやると、普段の笑い顔よりその方がずっと柔らかいと言う。失礼な話もあったものである。


0491.
今、こうして言葉を書き留めていると云うこと………それは、今まで書かれずに忘却の底へと沈み名も無き儘に堆積していった言葉達の、そしてこれから書かれずに消滅してしまうであろう言葉達の不在を、何とか埋めようとする試みに他ならない。が、一度失われてしまったものはもう二度と戻っては来ないし、それを完全に贖う術などは無いと云うことを、私は知ってしまっている。書けば書く程空しい。私の言葉は巨大な空白を中心に何時までもぐるぐると回り続けている………しかし決して何処に到達する訳でもない………だが()められない。


0492.
14、5の頃までには世界の本質について粗方知り尽してしまった。16の時には、これから先どうやっても新しいことは起こらないのだと諦めをつけた。その後の私の人生は、誰も食べずにカサカサに乾いてゆくひと切れの安物のケーキの様な代物だ。人間、若い内は余り普遍的な問いばかりを繰り返すものではないと云う良い教訓である。
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