0391.
性的人間は、今日、性器的人間としてしか、或いは反-性器的人間としてしか存在し得ない(両者の侵犯関係は時に非常に曖昧である)。全身の性器化、或いは、切り取られ凝集された人生の性器化と云う事態を、無論のこと現実の性別それ自体を含めた生理的限界は支え切れない。性器的欲望(性器的であろうとするものへの欲望)*は隠蔽と顕示、希求と棄却と云う逆方向の分裂を常に抱えている為、如何なる場合に於ても清浄と汚穢の二界に分裂することになる。両者の根が同じことであることはゆめゆめ忘れらるべきではない。求められているのは記号であって、「その先にある」肉体などでは断じてない。従って、一見極めて性器指向的であり乍ら、同時に反-性器指向的であることが可能になる(その逆もまた真であるが、どちらがどちらであるのか取り違えてしまうことも多い。何れにしろ生の肉体は寧ろ侵犯する側であって、される側ではない)。

*この際反-性器的欲望も一緒である。


0392.
待てど退路の日和なし。


0393.
我々の理想化されたセクシュアリティーは、恋愛感情から性交に於けるオルガスムスまで、希釈された超越のお裾分けと云う味付けが施されている。恋愛感情に関しては、それが根本的には受動的 (パッショネイト )なものであると云うこと、またそこに至る為には多くの場合一定の努力———或いは選択された物語の経過———が必要とされると云う点に於て、正にアウグスティヌス的であり、個の異性と云う陳腐なキリストに受肉した一箇の恩寵である。またそれは基本的に一神教的で多神教的であってはならず(無論こう言う場合の「異教徒」は幾らでも存在するのだが、それらは寧ろスパイスであり共犯関係にある)、一神教は嫉妬深いのでより厳しい行動形態———自律的倫理、内面化された戒律を要求する。
 例えばそのひとつである「結婚」と云う形の「契約」も元々は外在的な規律としてあった訳なのだが、今やそれを地上の楽園と云う形で満足させることが求められる。この場合、超越への契機は宇宙全体や共同体へとその当事者を導いてくれる訳ではなく、飽く迄二者間の、或いは子供と云う第三項を介在させての関係の中に留まる為、行き場を失いがちな遡及力と、フロイト的に言えば現実原則との軋轢は甚だしくなる。


0394.
日本本州の夏は、人々を現在に閉じ込める檻だ。時間の深みはあっさりと失われ、表層的な過去のみが騒々しくはしゃぎ回り、現在は自分を引き上げる為のロープとしては極く短いものしか持ち合わせなくなる。死者までもが軽薄になり、生者の方では生の横溢と称してその存在様式はどんどん希薄になる。それは死にも生にも近い季節ではない。それは只ぬるく濁ってゆるゆると腐ってゆくだけの、世のゴキブリ共だけの為に在る季節なのだ。
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