0377.
まだ正視するに耐えないニキビ面になったばかりの頃は、現前する特定の個人に対し誠実であろうとすることについて、随分と悩んだものだ。何せ、誠実と一口に言っても、それは一体何に対してなのか? それに対してどの様に振舞いをし、どの様な態度を採り、どの様な考えを抱けば、誠実であると云うことになるのだろうか?
 世間一般で「誠意ある態度」と呼ばれるであろう行動を取っていれば誠実だと云うことになるのだろうか?  商人ならばそれでも良かろう。客に対して誠意あるあの様に振舞っている限りに於て、それは誠意あることになるのであり、その誠意如何が問われる場面では、利潤の追求と云うより根源的な動機を問う必要は大方の場合無いからだ。
 誠実、とは、もっと外面と内面との即融状態、即自的であることが求められるのではなかろうか? 相手に対して誠実であるとは、相手と一緒になって出来合いの筋書きに沿ってお芝居を演じればそれで済むのだろうか? そうでないとすれば、では私は、相手の隠れた欲望、一見表には出て来ていない仮面の下の主体を相手にするべきだろうか? しかし、自分の真の欲望がどれかを決定する権利は、当人にのみあるものではないのだろうか? 「貴方の本当の姿はそれ(Es)ですよ」と言われてしまう様々な自己決定力の無い者は、最早ヒトではなくてソレ、主体ではなくて対象である。そうしたものを相手に、我々は誠実を云々すべきだろうか? それともその「それ」と云うのはそう易々と選べる様なものではないのだろうか? 行為ではなく存在論的な次元に於て、それは主体に先行するものなのだろうか? だとしても、そうと決めるのは一体誰なのか? 私か? 相手か? それか?
 自分の正直な姿を相手に隠さず曝け出すのが誠実、と云う考え方もある。だが当時の私(いや、今でもそう変わりはないのだが)はどれだけ混乱していたことか! 私は混乱している、ならばこの混乱の渦をその儘相手にぶつけてやるのが誠実と云うことなのだろうか? しかし実の所、そんなことをしてみたところで、気の毒そうな戸惑った顔で微笑みを浮かべられるだけで、それを理解してくれる者は皆無だったろう(そう云う環境で育ったのだ、私は)。不可解なものを目の前に突き付けて悦に入るのが誠実だとでも云うのだろうか? 私にはそうも思えなかった。では相手のキャパシティや性向に応じて自らを表現する方法を変えなければならないのか? いや内容それ自体を変えなければならないのではないだろうか? しかし情況によって如何様にでも選び取られるものが、誠実なんぞを僭称する資格があるものだろうか? 誠実の個別形態と普遍形態は区別すべきものなのだろうか、それともそうでないのか?………こうした具合で延々続いて行ったと云う訳なのだ。

 で、結局その後どうなったかって?
 色々あって随分と回り道をした挙げ句、そんな問いはどっかへ行ってしまったよ。もう少し体裁の良い言い方をするならば、世界全体に対して誠実であることに比べれば、個々人に対して誠実であることなど大して問題ではない、と云う境地に達してしまったのだ。全く、適当な距離感が掴めないと云うのは難儀なものだ。


0378.
過去と未来は我々の現在を規定するものとして現れる。我々が何者かを決めるのは、常にここにはない何かなのだ。そしてその規定から外れてしまったもののツケは、誰も払ってくれないと云う訳なのだ。
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