0306.
金や地位が無いと云うことは即ち、人間や細々としたことどもに対して興味を抱いている振りをし続けなければならないといけない状態にあると云うことである。何分にもそれが面倒だ。


0307.
我々近代の精神にとって、世界は総体として始めから失われたものとして現れるが、就中美や愛、友情、幸福なる合一等、恵まれた絆を構成するものどもに関しては、それらが望ましいものとして欲望される限りに於て、非常に残酷なもの、更なる失意を誘うものとして世界の中に立ち現れることになる。それらの経験の一回性や持続性を回復、乃至再現———いやこの場合正確には始めから何も無い所から願望の力のみによって作り上げることになるのだが、主観的な実感としては正しくそうした感じになるのである———しようとする試みは、従って同時に常に反対のベクトルを指向するシニシズム———自虐的なる快楽を伴った喪失の享楽———を生み出すことになる。この傾向は、私の世代の私の様なタイプの日本人男性の場合、その負の具象的な発現に関して注目するならば、特に性愛に於て顕著である。


0308.
私は、道端にごろんと転がった石ころである。それがどんな色形をしているかとか、重そうか軽そうかとか、どんな種類の石かとか、どんな状態かとか、どんな情緒的反応を引き起こすかとか、そんなものは一切合財どうでもいい。それらは全て派生的なものだ。唯、私がその石ころであると云う一瞬の直覚、それこそが存在する唯一の世界である、私と名付け、収斂させ得る世界の出発点である。消去法によってcogitoが残る前に、世界は不可分の、しかし意味を持った統一体として現れる。この場合、その意味が個別的なものであるかそれとも普遍的なものであるか問うことはさして重要ではない。そもそも存在するものとは即ち全体に絡め取られているもののことであり、また何物も一般化への指向なくしては存在することが叶わない。私は石ころである。それ以上でも、それ以下でもない。実存としての私とはそう云うものなのだ。


0309.
私は根っからの所謂詩人や文学者には深い軽蔑と嫌悪を覚える。*気分的なるものを人生の主音 (ドミナント )にして、一体彼等は恥じるところがないのだろうか?

*但し音楽家に対する感情は些か屈折していて、同列に扱うのには躊躇いを感じる。


0310.
人生について愚痴や不平を時々漏らすのは構わない。唯それが余りに饒舌になり過ぎるのは品性を欠く。それはそのことを発した当人が、ワガママな子供がダダを捏ねている様な印象を与える。私はワガママな子供なので、時々喋り過ぎてしまうこともある。何時か何処かの大人がやって来て、私をこっ酷く叱るかも知れない。そうしたら私は泣き乍ら隅っこに逃げ隠れ、この世に不満を持つ正当な理由がまたひとつ新たに追加されることになったことを嬉々として呪いつつ、ぶつぶつと口の中で悪態を吐くことになるだろう。
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