0300.
無為の最中に訪れる倦怠と、忙しく立ち働いている最中に訪れる倦怠と、どちらがより上等かと言えば、それは前者に決まっている。後者は、そうなって当然のものだからだ。


0301.
単に意味が削げ落ち、欠落した状態と、意味がその第一義的な重要性を失った状態*ははっきり異なっている。だが困ったことに、後者を前者と間違えることは滅多にないが、前者を後者と勘違いすることは割とよくあることなのだ。

*解り易く定式化するならば、無-意味/不-意味と、没-意味/非-意味とでもなろうか。


0302.
人生を労働に奉仕させること———つまり、究極的な自己実現の方途として労働を選択することは、趣味の———それも屡々恵まれた少数の———問題であって、万人が行動の規範と仰ぐべきものとしては甚だ迷惑なものである。我々が取り敢えず当面の目標と掲げるべきは、労働を人生に奉仕させること———即ち、万人が各人各様に一定限度の自尊と自由とを保つことが出来るよう、労働条件を改革することである。現行の資本主義制度は実にしぶとく、図々しい。だがそれに巻き込まれている者全員が従順で貪欲な資本主義者だと思ったら大間違いだ。


0303.
私が学会を敬遠する大きな理由のひとつは、自分の存在様式について尤もらしい釈明をせねばならないことだ。大樹の陰に隠れることの出来る者や、更に厚顔無恥な者であればそれでもいいだろうが、何分私は非常にシャイな上に面倒なことが大嫌いときているのだ。


0304.
若し虚無主義者 (ニヒリスト )の兆候のひとつに生真面目な深い絶望を数え上げねばならないとしたら、私は虚無主義者ではない。少なくとも、その段階は遅くとも20代の半ばまでには消滅してしまって、それ以降姿を見ていない。私は心底うんざりしているのだ。


0305.
実存はひとつの病である。即ち、癒されるべき何ものかである。しかし、分裂と破綻の過程が不可避である以上、「幸福な原初状態」などと云う代物をその療法として求めるのは筋違いである。実存としての精神が持つ、或いは持ち得る高さと深さと広がり———これらを押し縮めようとするのは単なる逃避であり、退行である。有効な対処法として現在までに我々が手にしているもののリストの中には、「神」と昔は呼ばれたであろうものがある。今、これは神である必要はない。要は超越への契機である。拡散ではなく、己の外部に唯一の遡及点を持たせること、それによって眼差しの可動領域次元を可能な限り拡大すること………。
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