0296.
文明を豊かに発展させる為には温暖な気候が不可欠だ。が、そこに自律と節度とを望むとなると、適度な寒さが必要になる。暑過ぎても寒過ぎても、生活の云う名の怠惰が覆い被さり、人生を肉体への関心で埋め尽くしてしまう。


0297.
被呑者のメンタリティは奇妙なものだ。己が魂の本体を謂わば貸し金庫に預けた儘歩き回っている様なものだから、その行動選択の基準に関して言えば、狂信者のそれに極めて近い。
 唯、己が具体的な行動の指針を欠いている為、(少なくとも精神の明晰性を保とうとするならば)必然的に理性的である必要がある。一見、理性を軽視する様な言動を採ったとしても、それはお馴染みのダブル・スタンダードか或いは一時的な離反に過ぎず、厳密な場では行動の準拠すべきところのものは常に峻厳なる論理的思考なのである。*実に被呑者とは、内面の奥底のことは除いて、表面上は全く頑固な理性主義者なのである。

*実際そうでなければ、呑者に己を呑ませることなど出来ないであろう。———だが、恐らく私はここで、自分を見本にして理想形を語っているのであろう。危険な兆候だ………だが、それが一体どうした?


0298.
何かを一生懸命やってしまった後に訪れる倦怠と、自慰の後の虚しさ、居心地の悪さとはよく似ている。
 挫折すること自体が問題なのではない。挫折は予め先取りされて組み込まれているものなのであって、努力したり運が良かったりすればどうにかなると云う類いのものではない。ここで言っているのは、具体的な成果の有無によって測られる類いの挫折ではなく、外的な状況の如何に関わらず発生してしまう挫折のことである。例えば、自慰の虚しさはでは子供でも作れば癒されるかと云うとそうではなく、具体的な結実物を生んでしまったが為に尚一層その不妊の度合いは深くなるのであって、また他人を巻き込んでしまった分だけ外面的にもタチが悪い。この場合挫折は原則的なものであって、外的な事態の推移によって動かされるものではない。だから例えば、では挫折しないように努力しろとか云う根性論は全く無意味だし、挫折しても次に向かってくじけず頑張れ、などと云うタワゴトも、二日酔いを治める為には迎え酒を浴びるべきだと言っている様なもので、何れはアル中になって物事の適切な姿を捉えられなくなるのが落ちである。


0299.
我々は謂わば挫折したロマン主義者なのであって、意味で埋め尽くしてしまうには世界は余りにも広く、また長く続いてしまうのである。年末に数時間第九を楽しむのは結構だが、一年中「おゝ友よ」などとやっている者はキチガイと呼ばれる。黒澤明の幾つかの映画の結末に見られる様な、日常———常態と化した意味の欠落、乃至没落———が、最後には勝利を占める。
 以前には、「リズム」と云う便利なものがあった。一日のリズム、一年のリズム、一生のリズム………今やはそれは、無くなったとまでは言わないが、少なくとも可成りの部分まで代替可能なもの、必然ではないもの、場合によっては無視しても構わないものになっている。のっぺりとした時間の中では充足の強度は自ずと希釈されたものになるか、変則的な熱狂にとち狂うかどちらかになる。死と再生の過程の遅延や擬態化は恒常化し、そこから生殺しにされた〈死〉が、我々の生活を覗き込もうと、絶えず機会を窺うことになる。
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