0278.
曾て真情を打ち明けたことのある相手に対して向けた白々しい笑顔と口上に、私はほとほと嫌気が差した。私はこうして、元々数少ない理解者に対して自ら門戸を閉ざしてゆくのだ。だが自分ではどうしようもない。私は本質的に飽きっぽく、徒な性格で、何事も長続きしないのだ———この喪失の精神を除いては。自分自身に対してさえ関心を維持出来ぬ者が、世界内の他に対して関心を維持出来よう筈があろうか。


0279.
基本的に、この世にまだ新しい人間を送り出そうなどと考える者達は(貧困等の止むに止まれぬ社会的事情があるのでもなければ)、私には皆頭のネジが五、六本弛んでいるか、それとも元々考える力を持たぬ(けだもの )の様に思えてしまう。
 だが、私自身、自分の遺伝子を、血を、そして運が良ければ私の精神のエッセンスにある何かの幾許かを、私がこの世に一瞬でも存在したと云うことの証を、下手な芝居で碌に拍手も無かったがとにかく何かを演じたと云う証左を残しておくと云うアイディアについて、(やや、多分、恐らく)真剣に考えたことが無い訳ではない。
 しかしそれとて細々とした面倒な細部のことまで考えるや途端に気が萎え、新聞等を読むにつけやはり狂気じみたことに思えて来て、況してやその為に女と云う生き物と連れ合うなどと考えるとゾッとするしかなくなるのである………私が自身の子供や結婚の可能性について考ることと云ったら、ざっとこんな有り様なのだ。


0280.
愛想笑いのストックが乏しいからと云って、私が不感症だと云うことにはならない。寧ろ私は色々なことに感動する———不必要なまでに、不必要な方面に。誰も読まない———恐らくは私自身でさえ滅多なことでは読み返さぬであろう詩(の様な代物)を書くなぞと酔狂な真似をしているのも、その所為である。


0281.
肝腎なのは評価されること自体ではなく、正当に評価されることこそが重要なのだ。過大評価も過小評価も、共に私を憂鬱にさせると云う点に於ては同じである。評価されなければ無用感、無能感に打ち拉がれることだろうし(知っての通り、私は虚栄心の強い生き物なのだ)、虚名は亡霊に小判を呉れてやる様なもので、どちらも私にとっては実に避けて通りたい道だ。自らの一定の努力と労苦に対する適切な評価———赤い絵の具で描いたものを、青や緑ではなく赤い絵の具で描いたものとして評価されること———こそが、私を私———「黒森牧夫」たらしめてくれるのである。


0282.
全能でなくてもいい、全知でありたい。
 それだけなのに、十一だか十二の時に深淵を覗き込んですっかり怯えてしまい、進歩も成長も余り見られぬすったもんだの挙げ句十六の時に降参宣言をしてしまってから、私はずっと挫折しか知らなかった。
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