0268.
参加し、生きてゆくものとしての歴史に、人間の権利と云う基本原則を無視する為の言い訳として持ち出すことの出来る「過渡期」などと云うものは存在しない。あってはならない。歴史は常に現在進行形である。今目の前にある不正を将来の何等かの利益の為に見逃すことは、永遠にその罪を背負うことと同じである。


0269.
恋愛は沢山しておくべきだとか何とか云う言葉がある様だが、私に言わせればそんなものは単なる性衝動*によって心が揺れ動くのを衆愚文化に都合にいい様に美化したものに過ぎない。恋愛とは、その適性に於てそもそも万人に開かれたものである訳ではない。*恋愛とは、その意志(能動)に於ては、生身の人間を或る種の過去の様に確定された観念に置き換えようとする試みであり、若しそこで相手を一個の人格として尊重しようとするならば、勢いそれは決闘の様なものにならざるを得ない。それは生きるか死ぬかであり、生き延びた者には死が、死んだ者には敗残が待ち受けている。そうした体験に何度も挑戦してゆこうとする者も極く稀に居るかも知れないが、しかしやはりそうそう居るものではない。恋愛はまたその情念(受動)に於ては全き恐怖と陶酔であり、足の着かない海で溺れる様なものである。それはまた一度襲われたが最後、二度と抜け出ることなぞ出来ずにそれっきりになってしまう様なものなのだ。

*これは屡々早い段階で惰性と慣習とで入り交じった「肉欲」へと堕してしまう。その成れの果てはぐだぐだと延々延期された「済」の印の付いた、寝転がっているだけの日常だ。

**と、私はこの様に明言することによって、あり得べき恋愛の姿についての描写を不敵にも宣言している訳なのであるが。


0270.
溶解した死としてのイザナミは現実原則などではなく、文字通りの意味での死の残骸である。法悦の可能性とその成れの果てである。イザナギの失敗は、一度失われてしまった死者を呼び戻そうとしたこと死の不可侵(不可触)性を侵そうとしたことであるのは言うまでもないが、神話ではこれを生と死の対抗原理を持ち出すことによって、対立を正当化している。詰まり、世界が幻滅に侵蝕されるのを防いだのである。これを巧みと評すべきか、欺瞞と評すべきか、今のところ私は判断がつかずにいる。


0271.
戦争が武器を必要とするのではない、武器が戦争を必要とするのだ。


0272.
共存共栄と云う観点からすれば、「自」衛隊とは要するに自分が拳をちらつかせて偏狭な枠組みを墨守しようとしていることを曝け出しているに過ぎない訳で、早いところ銃の代わりに注射器を、戦車の代わりにトラクターを乗り回す国際救助隊の様なものにその座を譲り渡すべきだ。
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