0240.
ストア派の独裁者とか虐待者と云うものを想像してみる———何てことだ! 充分あり得そうな話じゃあないか!?


0241.
初めてタンホイザー序曲を聴いた時、私は放蕩息子の帰還の話を思い浮かべたものだ———離反と和解、罪と赦しの物語だ。後になって解説書を読んでみた時、全くその通りの内容だったもので随分驚いた憶えがある。その様な時には、音楽自身が放蕩息子などではない、一人前の言葉であるとつい信じたくなる。


0242.
世界の多様性、多層性は、正気になる為の必須条件だ。だが常に何時も絶え間なくそのことを意識していられる訳ではない。夜中の二時に腹を壊してウンウン唸っている時に、どうやったら人類の過去の怨念やら未来の希望やらについて考えられると云うのだろうか?
 ———と云うのは半分冗談だとしても、主観を唯一の遡及収斂焦点———オメガ・ポイントとして世界を描こうとする試みは、常に何かはみ出した部分を(ジジェク風に言えば、「割り切れない余り」を)作ってしまうものだ。それ自身一箇所に留まってはいない焦点から、軌跡を結んで森羅万象をすっかり囲んでしまおうなど、その動機がどんなものであったにせよ、実に無茶な試みと言わざるを得ない。だから、時にはそれが鼻について我慢ならなくなったとしても、それはそれで仕方のないことなのだ。我々は無限を志すが、それでもやはり有限的な存在であり続けるのだ。*

*この言い分が言い訳じみて聞こえたとしても、事実言い訳なのだから仕方がない。


0243.
世の中に蔓延している狂信を確かめる手っ取り早い方法のひとつに、流行りの恋の歌を聞いてみると云うのがある。そこが街なら何処だっていい、手頃な店を何れか選んで中に入り、そこで流れている音楽が若し恋の歌だったら、その歌詞に出て来る「誰か」を「何か」に置き換えてみるがいい。「それ以上理由付けも動機付けも要らない」と云うこの恐るべき洗脳作業の実に狡猾な側面が、立ち所に浮かび上がって来る筈である。


0244.
「真理は力也」と「知識は力也」と云うこのふたつの表現の間に横たわっている距離を考えてみよ。前者は一般的にメンタルな、精神的な、或いは倫理的な性質を持つものを指すと考えられるものだが、後者は単に世俗的な様々な技術やノウハウへと向かう含みがある。訳し方ひとつで、ひとつの名文句が、全く異なった意味を持つ幾つもの格言へとどんどん分裂する。「知恵は力也」もまた世俗的な含みがあるが、これはもっと日常的なものや人生の処方についての意味に対して開かれている。「真理は力也」はもっと融通の利かない高慢なものになる可能性がある。「情報は力也」に至っては何をか言わんや。そこらのビジネス書にでも載っていそうな呆れる程安っぽい響きがある。
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