0226.
何百kgも何tもある様な巨体を時速何十kmと云うスピードで走らせ、何千℃もある様な火を裸の儘持ち歩いて人込みの中を行く。慣れてしまったからと云ってこれが危険な行為であることをすっかり忘れてしまっているんだから、全くバカじゃなかろうか。


0227.
私の父はよく、自分は昭和生まれの明治人間だと言っていた。だとすれば、私は差し詰め昭和生まれの大正人間と云うところだろう。明治生まれの様な生活全般に対する骨ばった厳しさも自己規律も持ち合わせていない、間もなく訪れる筈の破滅を唯手を拱いて待っているだけのダメ人間だ。


0228.
確かに私は宮澤賢治のことを、結局は体のいいオブローモフ主義者の一人に過ぎんと批判した。だが他人を断罪することによって自らに免罪符を発行しようなどとは考えていない。この儘無名であり続けるとしたら、私も結局は彼等の一員である、しかも割と出来の悪い一員であると云うことになるのだ。


0229.
ペンを胸に挿すのを忘れて家を出た時(無論、ノートまたはメモ帳はセットで完備だ)と、ポケットにハンカチを入れるのを忘れて出た時(殊に、私の脳漿を鼻水と云うどろどろの溶液でいっぱいにして窒息させてやろうと虎視眈々と待ち構えている花粉症が発症しそうな日には)と、どちらがより悲惨と言えるだろうか。暫く考えてみたが、どうやらハンカチを忘れてしまった時の方らしい。何せ何も喋らない私と云うものは考え得るが、何も考えられない私と云うものは考えられない(いや、これはダジャレではない。言い方が少々微妙だっただけだ)。そんなものは私ではない。頭が詰まってしまった私と云うものは、最早私とは言えない。が、そこでまた少々立ち止まる。公開された「黒森牧夫」と云う人格を形作っているのはこの貧相な肉体でも凡庸な脳髄でもない、発せられた言葉こそが、私の本質を成すものなのではなかろうか………? さて、ここでニワトリとタマゴ問題に捕えられた私は、延々ジレンマに悩むことになる………。
 どっちも忘れない様に気を付ければいいって? そんなに実際的にしっかりしていたら、それも私とは言えないとは思わないのかね?


0230.
労働は尊いものだと云う価値観が必要な人間と云うものは居るものだ。だが私は古代ギリシャの哲人達同様、それに必要充足以上の価値を付与しようとは思わない。単に「働け」と云う命法ではなく、「喜んで働け」「楽しんで働け」「嬉々として働け」と云う命法が幅を利かせている現在の状況に於ては、こうした偽福 (ぎっぷく )(「偽善」と云う言葉がこの場合当て嵌まらないので、こうした用語を使うことにする。———嗚呼、また思想屋の持病である造語病が始まった! 全く救い難い!)は食糧の、或いはカネの(どちらが先か、は興味ある問題である)精神に対する厚顔無恥な勝利を意味するものに他ならない。誰がそんなものにわざわざ加担してやるものか。
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