0211.
君が代斉唱や日の丸掲揚を強要しようとする側の者が次の様な論法を用いることがある。学校行事等の「公的」な儀式に於ては、教師等それに参加する人間は「公人」であって「私人」ではない、「私人」としては君が代や日の丸について内心でどの様な意見を持っていても構わないが、それを「公の場」で行動に繋げることは、「公人」としてあるまじき行為である、よって彼等もまた君が代を歌い国旗に礼儀を尽くすのが当然である、と。
 実の所こんなアホな主張が「公」の電波や活字に載って流されること自体おかしいのだが、君が代斉唱や日の丸掲揚の是非はともかく、この論法自体は、明治政府が信教や言論の自由を弾圧したやり口とそっくり同じである。「公」と「私」と云う具合に国民の行動空間を分割し、国家が定めるものは全て「公」であって、それ以外のものは「公」の権利を持たぬ「私」の領域に属することであるとすることによって、政府はキリスト教等の諸宗教や、共産主義等の諸思想の一切の「公的」な活動を禁止し、そしてまた教育勅語や国家神道等は「思想」や「宗教」の類いには入らぬものとして強要を正当化したのである。
 実際、何を思ってもいいが思っていることを口に出すな、と云う詐欺紛いのこのやり口を糾弾するには、カントの行った様な、公民と私人との一見奇妙に逆転したかの様な定義を思い返してみる必要があるだろう。実際、国家を私物化しているのは政府当局の方なのだ。国歌や国旗、或いは天皇が国民の「象徴」であるならば、それは紛れもなく一箇の思想に他ならない。「礼儀」「礼節」「マナー」「世間の目」「社会人としての常識」等の言い訳が出て来ることもあるが、この言い方はそもそも明らかに自らの主張に法的な強制力が無いことを白状している様なものであるし、この問題はそうした「教育的配慮」だけで片付けられるものではないことを、曾てこの国でそうした無言のルールによってどれだけの愚行・蛮行が繰り返されて来たことかを忘れてしまっている人々は思い返すべきである。
 愛国心はそれなりに必要であろう。だが、国とは何か、どうあるべきかと云うことについての議論を封じさせておいた儘、愛国心を持てと言われても出来ない相談であろう。そんなものは忠実な国民のすることであって、自分で考える頭を持った国民のすることではない。


0212.
広く人権侵害の具体的な事例*を指弾するに当たって最も気を付けねばならないことのひとつは、虚偽の証拠に基づく侵害案件の捏造である。誤れる指弾は単に誤っていると云うだけではなく、そのことによって指弾される側に新たなる被害者の一群を生み出し、更に、他の正当な指弾一般にまで悪影響を及ぼす。反対派に恰好の言い訳や反論の機会を与えてしまうのだ。そんなこんなで揉めている内に、他のもっと有意義なことに費やせたかも知れない時間と労力とが呆れる程に消尽されてゆくのだ。馬鹿馬鹿しい。

*なんなら簡単に「悪」、と言ってもいい。今日この形容に当て嵌る現実の具体的な事象はそんなものだろう。実に即物的で味気ないが、この言葉を使った時に出て来るチグハグさこそ、我々が人権思想を支持する際に眠っている不徹底な躊躇いを暴露してくれるものなのだ。
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