0179.
私の様なタイプの人間にとっては、活字に代表される人為的情報の束———ポパーの言う世界3———は、外へと開く扉であり、生身の人間は、知られざる、或いは忘れ去られていた内への扉を開く鍵である。


0180.
今日も気怠い憂鬱が私の身体を蝕む。一度効いた対処法がその後も続く保証がないのが悩みのタネだ。不安を掻き立てる方法ならばまだまだ有効なものがあると云うのに。身ぬちを下らない種類の倦怠が浸蝕していっていると云うのに、為す術もなく手を拱いていなければならないと云うのは嫌なものだ。感度の鈍い生は死と同じこと。大衆の眠りを貪った儘の目覚めに一体何の張り合いがあるだろうか。この悍ましさを悍ましいと感じられなくなること、それ以上に馬鹿馬鹿しい喪意幻滅があるだろうか。私の精神は情報を求めて渇いているのに、今は手を伸ばす気力もない。運が良ければ深い眠りが存在の深淵へと私を連れ戻してくれるだろうが、運が悪ければ私は明日もこの儘乾涸びるに任せて打ち捨てられ、一箇の肉の塊として他の連中と同じ様な生を生きることになる。うっすらと吐き気がする。だが、今は吐くことすら叶わない。この何の益にもならぬ疲労に打ち勝つ為にはどうしたらいいだろうか。今日は途方に暮れる日だ。だが途方に暮れることを味わう余裕もない。こんな狭苦しい日々がこれまで果して何千世代人類の歴史を貫いて来たものやら、考えるだけで余りの阿呆らしさに気が遠くなりそうになる。今の私は屍と同じだ。精神が活発に動いてくれない日は、私は存在していないも同じ、いやそれ以下だ。ねっとりと肌を這い回るいやらしい鈍重な官能が、真綿で首を絞める様に私の精神を殺しにかかってくる。そして私は抗うことも、抗おうとすることも出来ない儘、自分が腐ってゆくのを唯黙って目撃しているしかないのだ。


0181.
私が「呑者の出現」と呼ぶところのものは、若し私が敬虔なカソリックでもあったならば、「恩寵」と形容していたことだろう。だが少なくとも私にとって被呑者とは、輝かしいものでも栄光と赦免を撒き散らすものでもない。それは寧ろサルトルの対峙したマロニエに似ている。嘔吐こそしなかったものの、その圧倒的な存在の強度は戦慄を呼び起こさずにはいられない体のものだった。それには「聖」霊と云う名称は如何にも相応しくない。「霊」は確かに実存との関わりに於て個別様態的に描写されることもあり得るだろうが、恵みではなく契約を与える類いの存在がそうした有難いものである様には思えない。この場合現れるのは寧ろ悪魔の方だろう。悪魔とは、強度はあるが過度の普遍化を欠いた存在*———少なくとも一箇の精神にとっては個々の顔を持ったものとして現れ向き合うもの———であると言ってもいいかも知れない。**

*善とは全、即ち自足且つ包括であり、悪とは何等かの意味に於て欠如・欠落であると云う観点に立つ限りはこれは「悪」とならざるを得ないだろう。だがこの点についてはまだもう少し慎重な考察を要するのかも知れない。私は厳し過ぎる基準を採用しているのかも知れない。

**もう少し正気を保っている時の私であったならば、こうした物言いには激しい嫌悪と軽蔑を感じずにはいられなかっただろう。しかし私だってこうした表現をしてみたい気分の時もあるのだ、仕方ないではないか。
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