0172.
現代の法制度に於ける刑事罰についての議論をする時には、死刑や刑務所は、被害者やその遺族の復讐を代行する為に存在するのではないと云うことを決して忘れてはならない。現代の民主化された文明国家は復讐を認めない。個人による復讐も、国家による復讐も。例えば命を奪うと云う形式に於てそれを認めたとしたらどう云うことになるか。その場合、個人による殺人(この場合は正当防衛や緊急避難措置等を除く明らかな故殺、或いは計画的殺人である)は如何なる状況に於いても正当化され得ないが、充分と見做される理由があれば、国家による殺人は正当化されると云う論理がまかり通ってしまうことになる。

 一例としてイラク戦争を挙げるとすると、アメリカがイラクで10万人を殺したことは、狂信的なアラブ野郎が善良なアメリカ市民を1万人殺したと云う事実から発生する何等かの権利を付与することによって正当化され得るのだと云う主張を押し通すことは、凡そまともな頭の持ち主になら不可能でな筈ある。実情はどうであれ、アメリカ国内の保守派はともかく、国際世論をそれで納得させることは到底出来ない。実際、アメリカが周囲や自らの内部からの抗議の声を黙らせるには、「将来に対する脅威」を強調する一手より方はなく、死刑や重度の刑罰にしても、将来起こり得る諸犯罪に対する「見せしめ」と云う極めて野蛮な論拠に縋るしか反対論者を説得する道はないのだ。

 諸個人の権利と、「国家の権利」と称するもの乃至は国家による諸個人の権利に対する制限を、安易に混ぜ合わせ濫用することは、絶対に許されることではない。況してや一時の激情によって法を語るなど論外である。法律とは過去の為にあるのではなく、未来の為にあるのだと云うことが全く解っていない連中に、一体何が期待出来ると云うのだろうか?


0173.
多我問題については、私は今まで真剣に悩んだことはない。考えるべきは寧ろ独我論の方で、そもそも私以外にそれぞれ主観的世界の中心点を成す意識の極が存在し、しかもそれぞれが全く異なる広さを深さとを持っており、しかもその数が現時点ではっきり判っているだけでも数十億もあるときては、そんな途方もない戯言を本気で信じられる様な人間を探す方が難しいと云うものだろう。従って他我問題は基本的には主として倫理的・法的な領域で扱うべき問題であって、認識論の立場からは敬して遠ざく姿勢を貫いたとしても無理のないことだとは思わないだろうか?


0174.
我々は無知によって絶望へと追いやられる。だが無知だからこそ、この程度の絶望で済んでいるのだ。


0175.
事態が紛糾した時には武力によって何とかしようとする連中の考えていることが解らない。人類と地球と云う単位で物事を考えれば、豆鉄砲でつまらぬパワーゲームをしている暇なぞこれっぽっちもない筈なのだ。
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