0162.
合理性が人間性を圧殺するのではない。「合理的」であることを僭称する個々の事象の持っている偏狭さと、人間の諸権利と云う大基本原則の欠如が、人間の輝かしい諸可能性の開花を妨げるのである。従って、合理性*を軽視しまたこれと対決するが如き言辞や表現の一切**を私は軽蔑し、機会があればこれを攻撃し、力があればこれを排斥する。我々はもっと感じるべきである。だがそれ以上にもっと考えるべきなのだ。視野狭窄は諸悪の根源である。我々は自らの思考の目を開かせ、想像力の触手を伸ばす為の訓練をもっとすべきである。それも正しい方向に。文明世界の情報の質と量の、そしてリズムの変化に、人類の進化はまだ遠く追い付いていない。

*この場合の合理性とは、カント風に言えば無論実践理性的な合理性を指すのであって、SeinではなくSollenの領域を扱うものである。しかし屡々両者を取り違えてしまう者が余りに多いのもまた事実である。

**嗚呼、こうした言い方をすることによって私が自分が実に解釈の大量虐殺を行ってしまっていることを忘れてはいない。人間の非合理を回収する為の装置は確かに必要だ。だがそれを基調にして思考と行動を展開してはいけない! 仮令こうした言葉が校長先生の訓示か何かの様な退屈で窮屈な響きを持っていようとも、だからと言っておいそれと引っ込める訳にはいかない。


0163.
貧しい者達に米と教科書を(気に入らなければ「パンと教育を」でもいい)。こんな重要なことを恰も全く存在していないかの如くに取り扱ってほっぱらかしておく一切の政治家共は即刻絶滅すべきである。


0164.
人類全体と云う単位で物事を考えることに我々が心底慣れているとは到底言えなはしない。「我々」と云う語が用いられる時、それが往々にして或る型の文明的思考を理解し、或る程度の資産を保障され或る型の教育を一定度受け、その気になれば肥満することの出来る少数の成人達を指すことはよく知られているが、常にそのことが自覚されている訳ではない。多様性保持の観点からすればそのことに関しては傲慢の罪が咎められるべきであるが、人権の観点からすれば怠慢の罪の方が遙かに喫緊性を持った課題として取り上げられなければならない。このことに関しては過度の躊躇いは寧ろ犯罪である。正しい方向を向いてさえいれば細かいことは後からついて来る。力ある者は行動すべきなのだ。今直ぐに。


0165.
国家や企業や機関組織の一切を個人に優先させるべからず。そして個人を生態系の全体に優先させるべからず。常により広く深いホロンを。
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