0158.
雨の夜の絶望自体はそれ程恥ずべきこととも思わない。問題は、それに中身が混入して来た時のことだ。


0159.
A:「この憲法は今の政府には立派過ぎますな」
一同:笑う。

さて、この場面に於てAが言っていることは無論皮肉である。しかし皮肉られているのはどちらだろうか、憲法か、政府か。


0160.
私にとってちょっとした嘘———特に無知を装うタイプのもの———は既に第二の天性の様なもので、恐らく最早修正は不可能だろう。これは恐らくは相手方の演じているシナリオを自分も上手く演じていられるのかと云うことへの絶対的な自信の欠如が何時の間にか作り上げてしまった回答である。相手の知識量を試すことによって自分の方向性を修正すると云う戦略は、にも関わらず余り満足すべき成果を挙げた試しがない。戦略家として自らの無能を自覚しつつも、更にそれにしがみついていなければならない自分自身の不合理な性向を、私は自分のプライドを傷付けずに説明することは出来ない。従ってこれはもうこうなってくると、天邪鬼の仕業か何かとしか思えなくなってくる、と思わざるを得なくなる。実のところ私は自分と、そして世界と折り合いを付けるので手一杯で、明日には掃き捨てられる様なつまらぬ三文芝居の台詞を次々覚えているヒマなぞないのだ、と云うのが、この事態に対して私が常套的に用いる言い訳である。


0161.
私がケン・ウィルバーの思想を高く評価しつつも不満を隠し切れないのは、学的なものを含む人類の全思想形態を四つ乃至三つの象限に分けるのはいいとしても(尤も私自身のよく用いる分類法は若干違うし、また細かいことを言わなければ三つは究極的に二つにまで減らせるのだが)、私が最も関心があるのは、そもそも一体何故そうした象限が存在しなければならないのか、と云うことについてであり、それについてのウィルバーの回答が存在しない、或いは左程重要視されていない、と云う一点についてどうしても納得がゆかないからだ。

 現行のあらゆる一元論が思考の暴虐であり部分による全体に対する独裁であると云うウィルバーの批判は正しい。しかしアリストテレス風に交通整理を行って*———無論それはその規模だけからしても、また公平さの点から見ても、現時点では余人の追随を許さぬ全く未曾有の業績ではあるのだが———それで事足れりとしているかの様な彼の態度は、我々が依然として分裂した世界に生きていると云う事実に対して何等の慰めとなるものではない。

 主と客が出会う場、引き裂かれた世界が再びお互いを、自らの欠落を見い出す場を探ってみたいと云う私の願望が、所詮は下らぬ独善に陥るのが関の山であって、ウィルバーが批判しているところの悲しむべき勘違いに毒されるのが精々であるから、その手前でグッと立ち止まって分別を保とうとするのが通常は正しい態度なのだと云うことは私にも理解出来る。しかし乍ら、宇宙の生成について説明する理論と、その理論の成り立ちについて説明する理論とが、終局的には同じ理論の両極でなくてはならぬと云う私の夢想は、最早私の骨髄にまで滲み込んだ我が精神の本能本質の様なものであるから、仮令太々しい居直りだと非難されようとも、これを現時点に於て安易に放擲することは全くの不可能である。

*これを行うことが一体如何なるジレンマを孕む行為なのかについては長くなるので別の機会に話すことにしよう。
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