0138.
他人の愚劣さは憤りを誘う。だが己れの愚劣さはいたたましさを誘う。それはふと一瞬思い出しただけでも充分な嘆きのタネとなる。


0139.
適切な文脈を形成すると云うことがどれ程大事なことか。指示されるものよりも、指示作用そのものの方が重要性を持つと云う情況は充分にあり得る。
 批評や解説や研究分析の類いとその対象とされるもの(様々な表現作品や所謂「文化的所産」等々)との力関係は、それを受け止める側に於ける意識の変容が強調される場面に於て、屡々逆転する。殊に神話的な事象や作品は、多くの場合対象に関わる直接的な経験よりも、寧ろそれを神話化する作用の方が先行すると言ってもいい。宣伝や伝聞、伝達の段階を抜きにしてそれらを語ることは実際片手落ちであるどころか、その本質を見落とすことにもなりかねない。例えば映画本編とその劇場予告版、怪獣映画と解説本やその他の解説・紹介媒体、19世紀ドイツに於ける古代ギリシャの理念や日本の皇紀等に代表される過去の神話化、対人性行動と性娯楽メディア、等々。挙げれば切りがないが、これらは、何れも指示されるものより指示する作用の方が余程強力な体験触媒であるケースである。これらは屡々逆転現象の一種であると受け取られることがあるが、存在論に認識論を優先する立場からすればかなり短絡的な結論である。我々は根無し草との付き合いに慣れてはいるが、慣れ過ぎて目の前の事実が見えないことが往々にして起こるのだ。


0140.
呑者は意志を持たぬ者には全く関係のない概念だ。


0141.
ハチャトゥリアンやストラヴィンスキー、プロコフィエフやショスタコーヴィチと云ったソ連時代の大家達の傑作を聴いていると、傑作が生まれる為には時によってはジダーノフ批判も必要なこともあるのではないか、などと物騒なことを考えてしまうことがある。何故と云って、彼等が抑圧の下で力強く民衆の心を謳い上げていた同じ時代に、「自由」な国家達の自称大家達が一体どんな訳のワカランものをものしていたか見てみるがいい。


0142.
私はピカソを軽蔑し伊福部昭を称揚する。が、その違いは単に私の生まれた文化的風土の違いによるものかも知れない。このことについて依然として無反省であることに、私は時々疚しさを覚える。


0143.
私が人の生の終局目的について余り語りたがらないのは、それを無理解な他人に説明するのが億劫でしかも不愉快だと云う至極俗っぽい理由もあるのだが、もう少し言い訳として訳に立つ理由としては、それは基本的に公民的な意味に於ける他人と共有されることを特に目指していないと云うことが挙げられる。人類社会に対する義務と、私が個の魂としてこの万有と交わしている契約とは、同じ道の上に置くことは可能だが、同じ歩き方をしなければならないと云うことにはならないからだ。
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