0135.
制度による認知を経ていない求道者と云うものは概ね実に惨めだ。世の無理解が好意的な誤解に転化するまで、彼等は元々なくてもよい理不尽さとの闘い*を余儀なくされる。

*それが彼等の裡の少数の幸運な成功者に常人離れしたタフさを与えるであろうことは否定出来ないが。


0136.
具体的な行動の指針として救済*されるべきものが対象として提示される時、そこには必ず差別が生じる。文字通りに一切が救済れるべきであるならば、一切の肯定も否定も無意味になるが、原則的にこれは何ものをも指示せず、またどんなものでも指示し得る為、公共性を持ち得ると云う意味に於ける間主観性の立場を放棄すべきでないと云う立場からすれば、**到底諾い得ぬものである。我々は選別せねばならない

*ここで述べているのはそう深い意味ではなく、保持と非破壊とを要求する類いの「救済」である。物理的、志向的なものを含めて、自らの同一性を他のホロンに譲り渡す必要を迫られないと云う意味での消極的な側面と、自らの同一性を他のホロンに向かって主張し得ると云う意味での積極的な側面とを持つ。

**私はよく特定の条件抜きで放言してしまうことがあるが、原則的に私の言明が全て一定の条件を要求するものであることをここで今一度喚起しておく。


0137.
禅や能、浮世絵や武士道と云った所謂「日本の伝統」なるものを、胡散臭さ抜きで見ることは私には出来ない。何と云っても、「日本」なる「国」も「日本人」なる「民族」も「日本文化」なる「文化」も「日本語」なる「言語」も、明治に入るまでは何処にも———こう言い切るのが躊躇われるのであれば極く一部の者の頭の中にしか———存在していなかったのだからして、元より余所様のものであったところのものを自分達のものであるとして(ここから元々なかった筈のものから「疎外」されてしまうと云う奇妙に逆転した状況が生まれるのだが)押し付けられるのはどうにも頂けない。極く一部の者が内々に享受していたに過ぎないものを「古典」だ「伝統」だと言って国民全体に行き渡らせようとするのはナショナリズム以外の何ものでもないのだが、どうした訳だか政治的愛国心と文化的愛国心とは今の日本人の頭の中に収まる場所が違っている様で、両者に対する批判や吟味の姿勢は随分異なっている。

 例えば地方の者が「標準語」なるもの(「標準」だの「共通」だのと言った形容詞からすると標準化されるべき共通項が先行しているかの印象を受けるが、しかしこれこそが即ち公的な「日本語」なるものを形作っている核なのだ)に自らを洗脳させてゆく時、その過程については屡々自覚的であり乍らも、その行為の意味するところについて、単なる世間的な適応の一形態としか見做そうとしないのは、私の目には些か奇妙な光景として映る。具体的な誰かを目の前にした発話状況に於てその事実を余り口外しようとしない理由ならばまだしも理解出来る。自分がマイノリティ、しかも「劣った」(つまり真っ当な市民権を得ていない)マイノリティであることを自ら告白したがる者はそういないだろう。問題は、そうした隠蔽が恰も最初から存在していないかの様な思い成しが、「標準的」日本人のみならず、彼等を相手に徹底した演技を続けることを要求されている当人達自身の間でさえ横行していることである。

 確かに自己洗脳が適応のひとつであると云う点に於ては彼等も間違っている訳ではないのだが、「国」にまつわる諸々の概念が、確定済みの自然的与件ではなく一箇の思想、一箇の政策なのだと云う事実を自分達の日常に結び付けて認識出来ている者が実際どの位いるのか(私の個人的な経験からすれば、それは昔私が朧げに予想していたのよりも遙かに———遙かに少なかった)………そのことに思いを巡らせてみる時、私はうっすらと肌寒さを覚えることがある。*洗脳済みの人間は、自分が自らを洗脳したのだと云う事実を認めたがらない。そしてその事実に中途半端に自覚的である者程、時としてその否認は激しさを増すことになる。

 我々は自分達の日常を形作っている権力の網の目に対して無闇に神経過敏になるべきではない。だがそのことと、現状が既存既得の一種の自然状態であるかの様に見做すこととは全く別のことである。自覚を欠いた体制への参加と維持は、それ自体既にして堕落である。

*私が影に怯えている、無用な過剰反応をしていると思う者は自分で実際に周囲の者を試してみるがいい。
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