0122.
単なる生存の為の闘いを、退屈への言い訳としてはならない。人類には、他に勝ち取るべきもっとましなものがある筈なのだ。


0123.
想像やその産物を現実の代償行為としてしか見ようとしない連中は、自分達の言うところの「現実」がそれらの代償行為として存在していると云う事態を見逃す傾向にある。


0124.
人生が遺伝子獲得の絶えざるゲームであり、且つそれ以上のものではないと云う主張が馬鹿げたものであることは明らかだ。だが、多くの者が恥ずかしげもなく恰もそうした大原則に則ったかの様な生き方をしているのもまた事実であって、これに言い訳は一切無用だ。人間とは生まれつきのものではなく、教育と啓蒙とによって成るものであると云う事実を忘れてしまった時、世界と云う名の退屈凌ぎはどんどん堕落してゆく。お粗末な肉体的戦略ゲームとしての人生と云う観念は、知的な考察の対象と云う意味以外では余り私の歓心をそそらない。


0125.
私が真正のタオイストならば、固着を逃れる方法についていちいち悩んだりはしない。
 恐らく私は自分の愚かしさについて終生飽きもせず嫌悪感を抱きつつ、「逡巡を知らぬ者は精神を持たぬ非人間である」などと口走ったりしてゆくのだろう。
 或る特定の型の文明に属する一員として、こうした態度が適切なのかどうか、その答えを私はまだ知らない。


0126.
宣伝文句を利用する悪党はまだいい。宣伝文句を信じ込んでいるバランス感覚のない善人気取りは始末に負えない。悪党となら、どんなに少なくとも議論を行う為の余地が残されている可能性がある。善人気取りにはそれがない。


0127.
分裂の超克には、それに先立って先ず分裂が、或る確かなものとして打ち立てられていなくてはならない。対立を先鋭化し、相違を明確にすることが、それらを無力化するのに先行していなくてはならない。
 私が想像力の重要性を説き乍ら、その一方で、論理、論理と、論理的思考を絶対必要不可欠のものとして繰り返し振りかざすのはその為だ。強靱な(これは「膠着した」と云う意味ではない)思考に支えられていない想像は、唯の児戯だ。固定した焦点を持たない、或いは持とうとしない想像は、自ずから崩壊する。無軌道な放埒と豊かな実りある自由とは、同じではないのだ。


0128.
虚無主義(ニヒリズム )や相対主義の類いは、何かあると常に我々がそこに立ち返ってゆかねばならない所与の真実ではなく、何と言うか要するに趣味の問題である。鏡を持っていてそれを正面から覗き込んだことのある虚無主義者や相対主義者ならば誰でも私と同じ結論に達する筈だ。プロタゴラスだって、もし自説によって懐が肥えるのでなければ、家に帰って服を着替え乍ら「人間中心主義だって!? ハッ、馬鹿馬鹿しい!」と鼻を鳴らし乍ら叫んだかも知れないのだ。
inserted by FC2 system