0109.
確かに私は以前の様には短歌や俳句、五七形式の詩を書かない、いや今では殆ど書かないが、それはそれらが翻訳出来ないからだ。


0110.
快なしでも生きることは出来るが、不快なしに生き延びることは出来ない。


0111.
鈍感さや想像力の欠如にも利点はある。私が毎日の様に嘔吐しないで済んでいるのはそのお陰だ。


0112.
少なくとも日本に関しては、史実に忠実な歴史劇や時代劇を作ることは今では不可能だ。言語や肉体的特徴の面だけを取ってみても、過去の日本人を現代の日本人によって再現し得ないのは明らかだ。


0113.
モノとヒトとどちらが大切かと君は問うのか。良識に従えば無論ヒトの方が優先されるべきであることは決まっている。だが本は唯の「モノ」ではない。ヒトは後からポコポコと幾らでも湧いて出て来るが、外化された情報は一度失われてしまえば二度と戻ることはない。馬鹿げた古臭い主張に聞こえることを承知で敢て言おう、本は読者や批評家に優越する、と。この主張は無論公平で冷静な立場に立ったものであるとは到底言えない。が、このことを誰かが大声で叫んで回らねばならない様な情況が、この世にはゴロゴロ転がっているのだ。


0114.
作曲家と演奏家、どちらも居なければ(今日の形態に於ける)音楽は存在し得ないことは言うまでもないが、良い演奏家がまた出てくるかも知れないのに対して、良い作曲家は二度と現れないかも知れない。万が一二者択一を迫られる状況が出現した場合、現代型の文明を担う人類の一員としてどちらを選択すべきかは予め定まっている。


0115.
「残虐」「無慚」「汚らわしい」等々と形容されることの出来る出来事に対して、人は慣れることが出来る。不快さが消えることはないかも知れないが、それによってそれ以後の行動が完全に不可能になると云うことはない。順応することは出来るのだ。悍ましさが出現して来るのは、それが不適切な文脈の中に突然侵入して来た時のことだ。多少なりともものを自分の頭で考えると云う習慣を身に付けている人々は、侵入される側の文脈が如何に脆弱な基盤の上に立っているものであるか、自覚せずにいることは出来ない。それは良識を目覚めさせておく為に絶対必要な条件である。だが間違えてはならないのは、この侵入と云う形での出会い自体を絶対化し、それを基準としてしまってはならないと云うことだ。これは反語的思考に目覚めたる人種が往々にして陥り易い誤りなのだが、それに満足すると云うことは、終生膠着した政権に於て野党側の議員を続けるのと同じことで、物事を(屡々悲観的に)批判する以外何もしないと云うことと同じなのだ。出会いそのものを相対化する勇気を持たなければ、我々は新たな出会いが自分達の鼻ッ柱を摘んで引き摺り廻しにかかるまで双方の文脈を切り離して捉えることは叶わないだろうし、さもなければ絶望の裡に文句を呟き乍ら死を待つしか能のない人間になるしかない。
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