0098.
酔っ払うとは、一貫性を軽視し、同一性を侵害し、理性が精神を統御しようとするのを意図的に妨害することであり、言論に対して論理ではなく衝動が力を揮う様にさせることであり、明日の為の方便と称して葛藤と向き合うことから図々しくも逃げ出すことであり、従って凡そ正気でありたいと希う者ならば、大衆の愚昧さを理解しようとする時の手掛かりとする以外、何等の顧慮も払う必要はないことなのである。身も蓋もない言い方をすればこうなるだろうか、「酔っ払いに人権なぞ必要ない、貴様等とっとと地獄の底へ堕ちてしまえ」
 現在公共の場での喫煙には遅蒔きな規制が加えられているが、直接的な肉体的脅威と云う意味でも広汎な精神的悪影響と云う意味でも、飲酒の習慣をこそ一刻も早く根絶すべきである。文化的コンテクストを根本から改めると云う途方もなく迂遠で凡そ実現しそうにない可能性を手探りで探るよりも、その方がより一層見込みがあると云うものだ。


0099.
色取り取りの面倒な社会的欲求で彩られた昔乍らの生理的欲求、即ち食べて、寝て、排泄し、生殖し、賭けに勝ち、金を稼ぎ、様々な地位を獲得する等々………。やりたい者共は好きにやればいいのだ。だが何故この私がそんなことに巻き込まれねばならんのか。


0100.
例えば俳優は人間が自分自身を含む様々な事象に与える言語のひとつであるが、他の種の言語と同様、彼等が描き出すのは様々な理論である。と云うよりも、演じる限りに於て、彼等自身が理論なのである。それらは基本的にはあるものについての同定を行っているのであるが、厳密に言えばしかしあるべきものをと言い換えるべきであろう。それらが語るのは分割され単純化された修復不可能な全体の断片であり、我々がそれを聞いた後で当該の事象を再び見る時、それは最早曾ての面影を残してはいなくなる。それらは現実と云うものを有意味な、理解可能なものとする為のひとつの指標であり、額縁なのである。この場合額縁は鏡でもある。我々はその額縁を通して我々自身をも見るからである。
 だが、我々がそれらの中に読み込むことが出来ることが即ち我々が我々自身の中に読み込むことが出来るものであるかと云うことについては議論の余地がある。人格(persona)と云う範疇を当て嵌めてよいものかどうか迷う事例を、或いは初めから当て嵌めるべきものとは見做されていない事例を読込可能なものから截然と区別することは、年々困難の度を増して来ている。これは、我々のちっぽけな思惑に対する事象の広さ掬い難さと云う古来の問題の所為であると同時に、これらの理論がまた別の理論を育むと云う、言わば進化の必然の結果でもある。
 可能性が広がると同時に混乱の度も深まるが、これに際して安易な単純化に逃避することは、自らの精神に関して一定の複雑さを必要不可欠とする種類の者ならば絶対に避けねばならない。求められるべきは慎重に選択された単純さである。日々の光景は大多数の人間がこれを平気で裏切ることを教えてくれるが、無言の弾圧の存在が迎合の不可避性を教えていると考えるのは誤りである。我々は故意に退化すべきではない。多様性を確保し、それを未来に伝えてゆくことは確かに容易ではない。だが例えば古来の知恵に学ぶと称して時代を逆行させたり、心的な現状の処理能力に対して無根拠な過度の楽観或いは悲観を抱くことは、理性と想像力には忍耐と戦略が欠如していると認めることであり、人類全体の歴史に対する狭視による軽視と暴行である。君にはこれが耐えられるか。私には耐えられない。嫌なら考えろ。考えるのだ、静かに、根気よく。


0101.
他の国ではどうだかは知らないが、少なくとも、知らねばならぬ事柄についての日本の報道機関の呆れる程の無関心さはこの国の民意自覚の低さと無関係ではないが、こんな調子でも一応日々の暮らしを立ててゆくことが出来るのだから、衆愚とは実に有難いものである。大衆はこぞって自分達の愚かさに歓呼し旗を振り嬉し涙を流すべきだろう。痴呆的な迄に愚鈍でなければここまで幸福になれるものではない。
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