0092.
想像力———他の可能性を考える能力のない人間には、私はどうやっても不愉快さを感じざるを得ない。英語にはこれを表す"single-minded"と云う言葉があるが、これは私にとって痴呆かアルツハイマーにでも罹るのと同じ位の脅威だ。況してや自らにそれを許して自足している人間などと、果たしてこの私が対等に話し合える筈があろうか?


0093.
人間以外の存在———就中意識的存在として認知され得る諸存在に対する諸権利の保護と云う問題に取り組むに際して屡々示される想像力の欠如から来る満足感は、我々が如何に既得権益に執着するだけの詰まらない存在で、可能的諸主体に対する心の同定が実に恣意的に行われるものであるかと云う明白な事実に対する不感症が如何に広まっているものであるかを思い起こさせてくれる。我々は法的な規定の下で自らの存在の度合いを確認する。だがそれが我々の行っていることであって、自然界の永劫不変の秩序を表しているものではないと云う事実は屡々閑却される。これを傲慢と呼ばずして何と呼ぼうか。


0094.
我々は絶えざる殺戮の中で自らの生を全うしている。それに嫌悪を感じるのは誤りではないが、それによって生を全う出来なくなるのはナイーブ過ぎ、またそれを根絶しようと努力する(と思い込む)のは明らかな偽善である。


0095.
コンテクスト依存性の極めて強い倫理規範等を大上段にふりかざして向かって来る連中の相手をするのは本当に疲れる。自分が何を言っているのかよく知りもせずまた深く考えようともしない族に先ず必要なのは、議論(と彼等が思い込んでいるもの)ではなくてカウンセリングである。


0096.
私は気の短い進歩主義者———或いは、こうした言い方に語弊があるならば進化主義者———であるが、決して楽観主義者ではない。「我々の文明は放っておいてもその裡適応してゆくだろう」と「我々の文明は是が非でも適応せねばならない」との間には今のところ越えることの出来ぬ断絶がある。だがこの溝よりも更に深い溝が、即ちこれらと「我々の文明がどうなるか我々は知らないし、関心もない」との間の、凡そ適切な教育以外には有効かも知れないと見える対応策が全く思い付かない絶望的な迄に深い溝が、ぐるぐると我々のちんけな生活の周囲に巡らされている。この明々白々の事実の余りの馬鹿馬鹿しさに思いを馳せる度に私が憤死しないのは不思議な位である。


0097.
生きると云うこの難事に於て、私は考えることを第一とする人間だ。いや、時として考え過ぎる人間だ。人生には鈍感であった方が幸せになれることが幾らでも存在する。自分が複雑な所為か、私は単純さを愛する。だがそれは潜在的に複雑さを許容してくれる単純さでなくてはならない。従ってそこには必然的に私と対象との間に距離が必要になるか、或いはその単純さが確固たる意志によるものでなくてはならなくなる。
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